砥石城跡 乙子城跡 神崎川分水樋門

 岡山県瀬戸内市邑久町豊原にある砥石山上に、戦国乱世の梟雄宇喜多直家が出生した場所とされる砥石城跡がある。

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砥石山

 砥石山は、高さ100メートルほどの低山である。直家の祖父・宇喜多能家(よしいえ)の居城がここにあった。

 「備前軍記」によれば、大永年間(1521~1528年)ころから浦上村宗の配下にあった能家だったが、天文三年(1534年)6月に、高取城主・島村豊後守の夜襲を受け、砥石城は落城し、能家は自害した。

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砥石山登山口

 能家の死後、浦上宗景によって砥石城浮田大和守に与えられた。宇喜多直家は、天文十八年(1549年)、浮田大和守を攻撃して砥石城を奪取した。城主に弟の春家を任じた。

 直家は、後に岡山城を奪取し、さらに主家の浦上宗景を天神山城に攻めて追放し、美作の後藤勝基を打ち破り、備前美作のほぼ全域を支配下に置くことになる。

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砥石城本丸跡

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本城の遺構

 砥石城跡は、砥石山上にある五連郭の本城と、谷を挟んで向かいの山上にある出城とで構成されている。

 本城跡からの眺めはよく、現在の岡山市方面から来る敵を、手に取るように把握できたことだろう。

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本城跡から岡山市方面を眺める。

 この場所が戦略的に重要だったことが理解できる。

 砥石城跡から少し西に行くと、宇喜多直家浦上宗景から与えられた、直家最初の居城である乙子(おとご)城跡がある。

 乙子城跡は、砥石山より更に低い、ほとんど岡である乙子山の上にある城跡である。

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乙子山

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乙子城跡入口

 乙子城跡への登り口は、乙子山の南側にある鳥居の脇にある。少し登ればすぐ山頂に至る。

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乙子城の本丸跡

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乙子城周辺地図

 山頂の説明板に、戦国時代の乙子城周辺の地図が載っていた。乙子城は地図の中心にある。

 今はほとんど干拓地になっている児島湾が、当時は広大な海で、乙子城は吉井川の河口付近に位置していた。

 邑久郡を領する浦上宗景は、児島郡の細川氏、上道郡の松田氏の攻撃を防ぐため、天文十三年(1544年)に乙子城を築き、宇喜多直家に30人の足軽を授けて城を守らせた。

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乙子城縄張り

 直家は、この小さな山城からスタートして、備前美作を制圧していった。

 直家の子の秀家は、秀吉に仕えて五大老の一人になったが、関ヶ原の戦いで東軍に敗れて、大名宇喜多家は廃絶した。秀家は八丈島島流しとなり、そこで果てた。

 大名家の栄枯盛衰は、面白いものである。

 さて、乙子城周辺の先程の地図を見ると、城の南側に幸島新田という干拓地がある。

 江戸時代に入って、岡山藩郡代で土木技師だった津田永忠が開拓した新田である。

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幸島新田

 幸島新田だけでなく、児島湾を干拓して出来た沖新田の開発も津田の仕事である。この地図を見ると、津田永忠によって、いかに劇的に干拓地が広がったかが分る。

 津田永忠は、天和四年(1684年)に幸島新田の干拓を成功させる。

 津田は、千町川を延長させ、その水を新田内に引き入れた。

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千町川

 今の千町川は、まるで運河のようにゆったりと流れている。

 幸島新田の完成とほぼ同時に完成したのが、神崎川分水樋門である。

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神崎川分水樋門

 この樋門は、本流である手前の千町川が増水した時に、支流に水が行かないように堰き止めるために作られた。

 石護岸も、津田永忠が建設した当時の姿を留めており、何と建設から約330年以上経った現在でも、現役の樋門として使用されている。

 岡山県下で確認できる石造の樋門としては、最古のものだろう。

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  いやもう唯々格好いい。令和元年10月4日付の当ブログ「日生町 後編」で紹介した元禄防波堤のように、江戸時代初期に築かれた土木建造物が、現在も現役で人々の生活を支えているというのが、何とも言えない感動を呼び起こす。

 また、令和元年11月5日付の当ブログ「田原井堰と田原用水」で紹介したように、津田は吉井川の水流から取水するための田原用水を建設して、干拓した沖新田まで水を導いた。

 この津田の一大土木プロジェクトが、いかに岡山藩の食糧生産水準を押し上げたか。

 江戸時代に岡山藩領内で百姓一揆が起こったという話を聞いたことがないが、人々の生活を安定させた津田の功績は絶大である。

 現在、岡山藩と津田永忠の土木工事の遺跡を世界遺産に申請しようという動きがあるそうだ。もし実現すれば、喜ばしいことである。

 昭和40年に樋門を改修した時に出土した神崎川分水樋門の用材が、その南側に建設された現在の樋門の横に二本建てられている。

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貞享四年の樋門石

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享保廿年の樋門石

 一本は貞享四年(1687年)の銘があり、もう一本には享保廿年(1735年)の銘がある。

 宇喜多直家のように権謀術数を用いて領地を広げるのも人間の事業なら、津田永忠のように土木技術を通じて人々の生活水準を上げるのも人間の事業である。

 大名宇喜多家も、岡山藩も滅亡したが、津田永忠の土木工事の功績は現在も残って人々の生活を潤している。

豊原北島神社 

 餘慶寺と隣接するように建っているのが、豊原北島神社である。

 社伝によると、舒明天皇六年(634年)に比咩大神を祀ったのが、この神社の創建であるそうだ。

 祭神は、豊原北島神、応神天皇神功皇后、比咩大神である。

 当神社は、餘慶寺より古くから、この山上に鎮座していたようだ。

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豊原北島神社参道

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狛犬

 神社境内から少し南側に巨大な磐座があり、太古は磐座信仰がなされていたようだ。

 この神社には、源平合戦の時に源氏側で戦い、藤戸合戦で平行盛を破った佐々木盛綱が奉納したとされる、色々威大鎧(いろいろおどしおおよろい)を社宝として伝えている。

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色々威甲冑(瀬戸内市ホームページより)

 色々威大鎧は、完全に原型を留める大鎧として貴重な存在である。実際は、社伝と異なり、南北朝時代の作であると言われている。

 松平定信が著した「集古十種」にも掲載されている名品である。国指定重要文化財であり、現在は岡山県立博物館に寄託されている。

 境内に、「力石四拾貫」と刻まれた石が置かれていた。

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力石

 この石は、安政四年(1858年)に、現在の岡山市西大寺門前に住んだ寺元多三郎氏が、自宅から高下駄を履いて、片手に傘をさしながら担ぎあげたものであるという。
 多三郎は、「二つ石」の四股名で活躍した力士だったという。この石を片手で担ぎ上げたのだから、大層な力持ちである。

 豊原北島神社の社殿は新しい。

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拝殿

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本殿

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 この神社には、色々威大鎧が奉納されているが、鎧や刀が寺院に奉納されることはない。戦闘のための武具は、必ず神社に奉納される。神社は日本の武の伝統を支えている。

 豊原北島神社の御祭神応神天皇は、武神・八幡大神として、源氏に崇拝された。

 世界を空(くう)と見て、現世に執着を持たないことを説く仏教寺院と、人間の勇ましさや力強さを愛でる神社が共存しているのは面白い。

 この神仏習合の姿こそが、或る時は決然と戦い、或る時は執着せずに流れに身を任す、潔い日本人の姿を象徴しているのではないかと思う。

 

餘慶寺 後編

 本堂の北側には、三重塔が聳える。私が史跡巡りで訪れた10番目の三重塔である。

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三重塔

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 今の三重塔が建てられたのは、そう古くはない。旧塔跡に文化十二年(1815年)に再建されたものである。

 西幸西村、草井幸右衛門らが私財を投げうって再建したそうだ。この二人は、恐らく地元の名士だったのだろう。

 この三重塔を建築したのは、近世社寺建築に携わった大工集団である邑久大工である。彼らの系譜や技法を知る上で、重要な建築資料であるという。

 総高は20.6メートル、岡山県指定重要文化財である。

 三重塔の前には、蓮の花が咲いている。仏教を象徴する花である。

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蓮の花

 三重塔の奥には、餘慶寺を開いた報恩大師を祀る八角堂がある。

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八角

 新しいお堂であり、天井には鮮やかな格天井絵が描かれている。

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格天井絵

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報恩大師像

 祀られている報恩大師像も、そう古い像ではなさそうだ。

 八角堂には、八本の摩尼車が奉納されている。

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摩尼車

 摩尼車には、餘慶寺と山内各院に祀られている神仏のご宝号が刻まれている。中には経巻が奉納されていて、心を凝らして祈念しながらこの摩尼車を回すと、お経を唱えたのと同じ功徳が得られるという。

 八角堂の隣には、十三仏堂がある。

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十三仏

 十三仏堂の地下には、初七日から三十三回忌まで、死者が出会う冥界の王の本地仏十三仏が祀られている。

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十三仏の石像

 七七忌の四十九日に現れる太山王の本地仏薬師如来である。今日は父の四十九日で、法要では僧侶が薬師如来真言を唱えていた。

 三重塔の北にある薬師堂は、その薬師如来を祀っている。薬師堂は、山内の堂塔の中では、簡素な建物である。

 享保十九年(1734年)の再建棟札が残っている。

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薬師堂

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 正面の扁額には、「医王窟」と記されている。祀られている薬師如来が、古くから眼病などの病に効験があるとされていたからだろう。

 薬師堂には、ご本尊である国指定重要文化財の木造薬師如来坐像と、同じく国指定重要文化財の木造聖観音立像、岡山県指定重要文化財の木造十一面観音立像が祀られている。

 江戸時代には、朝観音、夕薬師と呼ばれ、信仰を集めたという。

 薬師如来坐像聖観音立像は、平安時代前期の作、十一面観音立像は平安時代後期の作であるという。

 薬師堂の隣には、簡素な社が二棟並び立っている。

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日吉社愛宕

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 向かって右側は、比叡山の地主神である日吉大神(山王権現)を祀る日吉社である。餘慶寺の鎮守社として祀られている。

 日吉大神の使いは猿であるとされるが、日吉社の蟇股には、見ざる言わざる聞かざるの三猿の彫刻が彫られていた。

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日吉社

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蟇股の三猿の彫刻

 隣の愛宕社は、火難を防ぐ神様、勝利を呼ぶ神様とされている。餘慶寺愛宕社には、愛宕社の神様の本地仏である勝軍地蔵が祀られている。

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愛宕

 毎年7月23日に開扉され、法要が勤められるという。

 ここ最近、父の法要の関係で、仏事に接することが増えた。昔は親類の法要に参列しても、仏事の意味を深く考えなかったが、ここ最近は、法要でお勤めをされる僧侶の方が、法要後に懇切に仏事の解説をして下さるので、仏教の世界を身近に感じるようになってきた。

 そんな気持ちで寺院を巡ると、古い寺院に残る昔の人の信仰の形跡も、近しいものに感じるようになって来た。

 最近コロナ後の生活を、世間では新常態という言葉で呼ぶようになってきたが、生活様式が変っても、生と死を巡る人々の気持ちは、昔とさほど変わらないのではないかと思う。

餘慶寺 前編

 岡山県瀬戸内市邑久町北島にある上寺山餘慶寺は、天台宗の寺院である。

 寺は、小高い丘の上にある。神仏習合の名残か、餘慶寺と接して豊原北島神社が建っている。

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餘慶寺の案内板

 餘慶寺は、天平勝宝元年(749年)に報恩大師が開創した。備前四十八寺の一寺である。

 開創当初は、日待山日輪寺という名称だったが、平安時代に慈覚大師が再興した際に、本覚寺と改められた。

 その後、近衛天皇(在位1142~1155年)の勅願寺となり、上寺山餘慶寺と名を改めた。

 中世は、赤松氏、浦上氏、宇喜多氏の信仰を得て、江戸時代に入ってからは、岡山藩池田家の尊崇を集めた。

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上寺山餘慶寺の伽藍。手前から鐘楼、地蔵堂、本堂、三重塔、薬師堂

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本堂と三重塔

 餘慶寺本堂の御本尊は、千手千眼観世音菩薩立像だが、本堂が東側を向いているため、東向き観音と呼ばれている。

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本堂

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 江戸時代に、岡山藩主が江戸で在勤中の時、病にかかった。藩主の枕元に、五色の雲の中から現れた千手観音が立ち、「我は備前の東向き観音なり。このたびの病苦を逃れんとするなら、悩む心を祈る心に改め、あつく我を祈れ」と厳かに告げ、煙の如く消えたそうである。

 藩主が、国元の東向きの観音様を探すと、餘慶寺におられるのが分かった。厚く祈願すると、病がたちまち癒えたという。

 本堂の前には、甕に入った蓮の花が美しく咲いていた。

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本堂の前の蓮の花

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 本堂は、棟札によると、永禄十三年(1570年)に建立され、正徳四年(1714年)に修復された。国指定重要文化財である。

 正面の向唐破風は、江戸時代後期に付け加えられたものであるらしい。

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向唐破風

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蛙股の彫刻

 本堂には、慈覚大師が自ら彫ったと伝わる秘仏千手千眼観世音菩薩が祀られている。

 御本尊が祀られる厨子の御前仏として、中国の観音聖地である補陀山から勧請した千手観世音菩薩が祀られている。

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観音堂の額

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内陣の様子

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御前仏の千手観音菩薩

 本堂内陣は、きらびやかな密教の祭壇が築かれている。宇宙に遍満する仏様をお呼びして供養する空間である。

 厨子に向かって左側には、伝教大師最澄の御像が祀られている。

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伝教大師最澄

 私は、真言宗の宗徒であるが、超人的な弘法大師空海よりも、人間的な伝教大師最澄に親しみを覚える時がある。

 本堂の前には、平成14年に、中国観音霊場会と補陀山との友好交流10周年を記念して勧請した千手観音像が祀られている。

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千手観音像

 この千手観音像も東向きに安置されている。

 補陀山とは、日本人入唐僧の慧鍔大師が、中国の五台山から観音像を勧請しての帰路に、船が難破してたどり着いた島で、中国四大仏教聖地の一つとして信仰を集め、観音信仰の中心的存在となっている。

 本堂の南側にある地蔵堂は、昔の十王堂を平成元年に再建したものである。

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地蔵堂

 仏式で葬儀を行うと、その後四十九日まで七日毎に仏前でお経を上げるのは、皆さんよくご存じである。四十九日の後も、百ヶ日、一周忌、三回忌と仏事が続く。

 忌日から三回忌まで、十回の仏事があるが、これは死者がそのたびに十王と呼ばれる地蔵菩薩の化身の王の裁きを受け、自分の行くべきところに導かれるためにある。

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地蔵堂説明板

 私の父の四十九日が明日あるが、明日父は太山王に会って裁きを受けるわけだ。仏事に参加する遺族は、父がよい裁きを受けられるように、祈るしかない。

 地蔵堂の隣にある鐘楼は、嘉永三年(1850年)に再建されたものである。その様式により、桃山時代末期から江戸時代初期にかけての創建で、その形態をよく残していることが分るらしい。

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鐘楼

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 屋根に軒唐破風を付けた本瓦葺の屋根は、豪華な意匠である。

 屋根と軸部、袴腰の均整の取れた姿は美しい。

 鐘楼にかかる梵鐘は、「上寺の晩鐘」と呼ばれ親しまれている。青銅鋳造製である。

 

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梵鐘

 銘文によれば、元亀二年(1571年)に、明人が豊後国大分郡府中の惣道場に寄進したものであるらしい。惣道場は、近年の研究で、一向宗門徒が集まった施設であったことが分かって来た。

 豊後国にあったこの梵鐘が、餘慶寺にかけられるようになった経緯はよく分かっていないが、伝承では、秀吉の九州征伐に従った宇喜多秀家が戦利品として持ち帰り、餘慶寺に寄進したとされている。

 梵鐘は、岡山県指定重要文化財である。

 餘慶寺は、かつて七院十三坊と称された塔頭があったが、現在も6つの塔頭が残っている。これだけの塔頭が現存するのは、中国地方の寺院の中でも有数であるそうだ。

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塔頭明王院

 今回紹介した餘慶寺は、密教寺院だが、最近密教寺院の荘厳さに魅かれるようになって来た。日本中の密教寺院を訪れてみたいものだ。

虫明焼

 虫明焼(むしあけやき)は、現在の岡山県瀬戸内市邑久町虫明で継続して制作されている焼き物である。

 備前の焼き物と言えば、備前焼が有名である。備前焼は、釉薬を使用しない自然釉を利用した焼き物である。

 虫明焼は、釉薬を使い、絵付けもする。京焼の流れを汲んだ焼き物である。全国的にはまだ知名度が低いが、茶陶の世界では一目置かれる焼き物である。

 瀬戸内市邑久町尾張にある瀬戸内市中央公民館に、虫明焼展示室がある。

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瀬戸内市中央公民館

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虫明焼展示室

 虫明焼の歴史は新しい。邑久郡を所領としていた、岡山藩筆頭家老伊木家の第14代伊木忠澄は、茶道に通じ、三猿斎と号した。

 三猿斎は、以前から京焼に着目していたが、弘化四年(1847年)に釉薬陶法の新しい窯を間口に開いた。京都の名工初代清風与平を虫明に招き、京風の薄手の茶陶を焼かせた。

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清風与平作「菊絵菓子鉢」

 虫明焼の窯は、幕末の変動期に入り、文久二年(1862年)には取締役をしていた森角太郎に譲渡された。民窯のはじまりである。

 三猿斎は、明治に入ってから、各地から名工を虫明に呼び、虫明の陶工の指導に当らせた。明治元年には真葛宮川香山を虫明に呼んだ。3年間森角太郎、香洲親子が宮川香山の指導を受けた。

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山根四山作「枇杷果菓子器」

 上の写真の作者山根四山も、島根県から呼ばれた陶工である。

 こうして名工の指導を受けた森香洲が続々と作品を制作するようになる。香洲時代がやってくる。

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森香洲作「蔦絵茶碗」

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森香洲作「土筆絵茶碗」

 虫明焼は、京焼の流れを汲んだ上品さと、鄙びた大らかさが共存している。

 実は私の妻もお茶をしていて、虫明焼を習っていたのだが、この一見地味な虫明焼が、お茶席では非常に映えるという。

 森香洲のあと、明治13年に岡山片瀬町に天瀬陶器製作所が出来て、優れた陶工がそちらに移ってしまったので、虫明焼は一時衰退した。

 昭和7年に横山香宝、岡本英山が虫明に窯を作り、虫明焼を復興する。

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横山香宝作「落雁絵菓子器」

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岡本英山作「椿絵茶碗」

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岡本英山作「緑釉蓮華器」

 昭和9年に、二代目横山香宝の弟子・黒井一楽が独立して窯を作った。

 現代は、一楽の子である、黒井慶雲、千左兄弟が、虫明焼の伝統を継いでいる。

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黒井千左作「窯変稜線文花入」

 黒井千左氏は、現在も虫明に窯を持ち、製作を続けておられる。私の妻が、岡山市で開かれていた黒井千左氏の陶芸教室(現在は休止している)で習っていたことがあり、大変お世話になった。千左氏のお宅にお邪魔して、お会いしたこともあるが、我々のような年下の者にも礼節をもって接することを忘れない、紳士的な方である。

 千左氏は、岡山県指定重要無形文化財保持者であるが、今は御子息の博史氏も虫明焼の陶工となっている。

 こうして、伊木三猿斎が始めた虫明焼の歴史が続いて、今も新しい作品が生み出されているのは、喜ばしいことである。

備前長船 後編

 備前長船刀剣博物館の前には、近代備前長船の刀匠今泉俊光の工房を再現した、今泉俊光刀匠記念館がある。

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今泉俊光刀匠記念館

 今泉俊光は、明治31年佐賀県小城郡小城町で生まれ、祖父の影響を受けて幼いころから刀作りに興味を持ち、釘を潰して小刀を作ったりしていた。

 その後岡山県内の紡績会社に就職したが、その傍ら刀鍛冶を研究し、長船の刀匠に誘われて刀の制作を始めた。

 戦後の一時期の中断はあるものの、平成7年に97歳で亡くなるまで、作刀を続けた。

 今泉の鍛刀技術は、ほとんど独学であり、自家製鋼や独自の焼き入れ方法などを導入していた。

 記念館には、今泉が試行錯誤の果てに開発した、焼き入れ用の火床、水舟が展示してあった。

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火床

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水舟

 火床の中に炭を平らに積み、刀身全体をその中に埋没させ、上から団扇などで煽いで過熱し、火床を上下に傾斜させて、火床内の温度を平均に保つように調整した。そして直ちに手前の水を張った水舟に入れて急冷させた。

 通常の火床での、刀身全体を平均的に加熱して赤める難しさを解消する目的で作られたものである。

 記念館内には、今泉が約50年間作刀した鍛刀場が再現されている。

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今泉俊光の鍛刀場

 左の機械ハンマーは、板バネを利用してハンマーで鋼を叩く機械である。この機械が3代目に当たる。

 右手の煙突の様なものは、火床(ほど)で、素材を加熱するところである。横に鞴が付いている。

 中央には、素材を叩く金床がある。

 備前おさふね刀剣の里には、刀職人達の実際の作業場が公開されている。

 例えば、鍛刀場では、刀を打って鍛え上げる鍛刀の作業を公開している。

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鍛刀場

 それ以外にも、塗、白銀、金工・刀身彫、研、鞘、柄巻の各職人が、作業を行う様子をガラス張りの工房で公開している。

 私が訪れた時も、実際に職人さんたちが作業をしていた。

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刀身彫

 刀身彫の工房に展示していた短刀の刀身には、不動明王が彫られていた。

 また、研の工房には、様々な砥石が展示されていた。刀を完成させるまでの様々な工程が興味深い。

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研の工房

 備前おさふね刀剣の里には、ふれあい物産館という土産物売り場がある。ここには、ペーパーナイフや包丁などの土産物だけでなく、アンティークの鍔なども売っている。

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ふれあい物産館

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アンティークの鍔

 ここでは、かつて日本刀の刀身も売っていたようだが、今は売っていない。

 さて、備前おさふね刀剣の里から南に約300メートルほど行くと、長船の刀匠たちの菩提寺である、高野山真言宗の慈眼院がある。

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慈眼院

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慈眼院山門

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慈眼院本堂

 慈眼院は、天平勝宝年間(749~757年)に唐僧鑑真により創建されたと伝えられる。古くから長船刀工の菩提寺となっている。

 賽銭箱に鍔が付いていたり、刀剣型の絵馬があったりと、刀匠ゆかりの寺であることを髣髴とさせる。

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賽銭箱の刀の鍔

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刀剣型の絵馬

 境内には、刀匠横山元之進祐定が明治20年に寄進した、永徳四年(1384年)作の梵鐘がある。

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鐘楼

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永徳四年(1384年)作の梵鐘

 梵鐘を打つと、余韻がいつまでも続く、美しい調べが響いた。この梵鐘は、元々は筑紫国の筑紫宮にあったという。瀬戸内市指定重要文化財である。

 また、境内には、刀匠横山上野大掾祐定の墓がある。

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横山上野大掾祐定の墓

 歴代刀匠が眠る寺に、自分も眠ることになるのは、長船の刀匠たちにとって、思い描いていた人生の最後の姿だろう。

 さて、慈眼院から東に数十メートル歩くと、横山元之進祐定が自宅に建てた、犬養毅揮毫による「造剣之古跡碑」がある。

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造剣之古跡碑

 横山元之進は、大正14年9月に、備前長船の史跡を保存し、その偉業を後世に伝えるため、私財を投げうって、屋敷敷地中央にこの石碑を建てた。昭和34年に、石碑は現在地に移動したそうだ。

 日本刀は、世界でも日本でしか生産出来ない技術の粋を集めた武器である。

 刀匠たちにとっては、自分が精魂込めて作った刀が、武士たちの精神の支柱となり、又戦いの武器となり、数多くの武人の生死を左右することになるのが、誇りであったことだろうと思う。

 自分が作った刀を送り出すときの、刀匠の気持はどんなものだろう。

備前長船 前編

 備前国長船は、古くから日本刀の一大産地として有名である。日本で国宝・重要文化財に指定されている刀の約半数は、備前長船で作られたものである。

 中国山地で採取される良質な砂鉄は、日本刀の原料として優れていた。中国山地には、砂鉄から玉鋼を作るための、たたら製鉄に必要なクヌギが自生していた。

 南北に貫流する吉井川は、水運が古くから発達し、日本刀の原材料を運ぶのに適していた。長船の地は、山陽道と吉井川が交差する場所にあり、人、物、文化が交流する拠点だった。完成した刀を出荷するにも、吉井川を下ればすぐ瀬戸内海に至る。

 岡山県瀬戸内市長船町長船にある、「備前おさふね刀剣の里」は、備前長船刀剣博物館、鍛刀場、刀剣工房、今泉俊光刀匠記念館などの、博物館と刀剣工房が集合した施設群である。

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備前長船刀剣博物館

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 まずは、備前長船刀剣博物館を訪れる。この博物館は、全国でも珍しい日本刀専門の博物館である。

 館の入口に、「山鳥毛里帰りプロジェクト」の広告が張られていた。山鳥毛というのは、備前長船で作刀され、上杉謙信が愛用し、上杉景勝に伝えられた刀の銘である。現在国宝となっていて、戦後上杉家から岡山県の愛刀家の手に渡り、現在は岡山県立博物館に寄託されている。

 この山鳥毛は、無銘だが、作風から鎌倉時代中期に長船の福岡一文字派によって作られたものと見られている。

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国宝・山鳥毛の解説

 その炎の燃え立つような激しい刃文は唯一無二であり、備前長船刀の最高峰と言われている。

 この山鳥毛を、瀬戸内市が寄付を募って購入し、里帰りさせようとしている。それが山鳥毛里帰りプロジェクトであるそうだ。

 博物館では、「長船の郷土刀」というテーマ展の最中だった。

 一階には、日本刀が出来るまでの作業工程を説明した展示がされていた。

 日本刀の原料は、良質の砂鉄から、たたら製鉄によって作られた玉鋼である。

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日本刀の原料

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玉鋼

 この材料の玉鋼を叩いては伸ばし、熱して折り返しては叩いて鍛え、鍛錬を繰り返していく。刀身を伸ばして行き、最後は研いで日本刀の姿に整えていく。

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鍛錬の模様

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日本刀が出来上がる過程

 こうして鍛錬の末に完成した日本刀は、技術の粋と言っていいだろう。

 日本刀の刃文や切先にも様々な名称があるようだ。

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断面と刃文の名称

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鍛肌と切先の名称

 1階には、日本各地の日本刀が展示されている。私には、どんな日本刀がいいものなのかを鑑識する力がないので、どうしても素人の感想になる。

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銘:忠廣 江戸時代

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 写真の銘:忠廣は、肥前国の藤原忠廣の作であるそうだ。反りが少なく、刃文も美しい。日本刀の世界では、慶長以後の刀は新刀と呼ばれ、新しい刀とされる。

 次の長船の祐定作の短刀などは、明治時代の短刀だが、刃文が波打っていて面白い。

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銘:祐定作 君万歳

 2階に上がり、テーマ展の「長船の郷土刀」を観る。

 銘:秀景の槍は、応仁の乱の頃の作であるという。槍は実戦で使用されて消耗することが多く、現存するものは少ない。貴重な資料である。

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銘:秀景

 次の勝光作の鎧通しは、足利義尚が、近江の六角氏を攻める時に、赤松政則に頼んで長船の刀匠勝光を参陣させ、作刀させたものである。長享二年(1488年)の作だ。

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銘:勝光

 刀身に梵字が刻まれている。このような彫刻は、彫金師が刻む。

 鎌倉時代後期の元重作の太刀は、刀身が長く、反りがあっていいものである。

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銘:備前長船住元重

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 鎌倉時代には、騎馬戦で使い勝手が良いように、長大で反りが強い太刀が主流であった。足軽戦が主流になる戦国期には、接近戦がしやすいよう刀身が短くなり、反りが少なくなる。

 この太刀の鞘や拵えは江戸時代のものである。

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糸巻太刀拵

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金梨子塗 五三桐文蒔絵鞘

 刀は刀身だけでなく、柄頭や鍔の金具、柄巻の拵、鞘の塗りなども含めて、一級の工芸品である。

 昨日の石上神社の記事でも触れたように、日本の歴史は刀剣が切り開き、刀剣と共に歩んできた。戦いの歴史というものは、血生臭いものだが、これもまた歴史の一面である。

 人と共に戦い、人から恐れられ、人を魅了してきた刀というものの由来と歴史も、興味深いものだ。