横尾山静円寺 竹久夢二生家

 寒風古窯跡群のある山上から下りて、瀬戸内市邑久町本庄にある横尾山静円寺(じょうえんじ)を訪れる。真言宗古義派の寺院である。

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静円寺山門

 この寺は、天平二年(730年)に行基菩薩が開基したと伝えられる。備前では、まず7世紀後半に官寺が出来て、奈良時代前半に行基菩薩が寺院を開き、奈良時代中期になって報恩大師が備前四十八寺を開いたという順序で仏教が浸透していったようだ。その後、ひょっとしたら弘法大師空海備前を訪れたのかも知れない。

 説明板がないので、創建以後の静円寺の来歴はよくわからない。元々は、現在地の西側にある山上に寺院があったようだ。

 山門から境内に入ると、正面に本堂などの三つのお堂が並んでいるのが目に映る。

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静円寺の境内とお堂

 私以外に参拝客はいなかった。寺域は静けさに包まれていた。

 本堂には棟札があり、「天正七年(1579年)十一月三日上棟」と記載しているらしい。今から440年前に再建された建物だ。

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本堂

 本堂は江戸時代中期に、山上から現在地に移築された。桁行五間、梁間五間、単層、入母屋造り、本瓦葺きの建物である。柱は欅の総円柱である。岡山県指定重要文化財となっている。

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本堂向拝の下

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 彩色はされていない。木と瓦だけで組み上げられた建物というものは、簡素な美しさを持っている。

 本堂の内陣には、入母屋造り、宮殿形の厨子が設けられている。

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本堂内陣

 厨子の手前には、禅宗様の須弥壇が設けられている。寺院には、外観は地味だが内部は極彩色というものが多い。静円寺もそうである。

 本堂隣の開山堂には、弘法大師像が祀られていた。

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開山堂

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開山堂内陣

 ここでも弘法大師に出会うことができた。高野山奥の院御廟での弘法大師の祈りは、現在も続いている。

 静円寺多宝塔は、元禄三年(1690年)に再建された。高さ約12メートルと小ぶりながら、バランスの取れた閑雅な美しさを持っている塔である。私が史跡巡りで訪れた3つ目の多宝塔である。

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多宝塔

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多宝塔初層

 朱色に輝く高野山の根本大塔も美しいが、木肌をそのまま見せている多宝塔もいいものである。これも岡山県指定重要文化財である。

 静円寺から北に2キロメートルほど行くと、大正ロマンの画家、竹久夢二の生家がある。茅葺屋根の家である。

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竹久夢二生家

 竹久夢二生家は、築約250年とされる民家である。竹久家は、この地で農業と酒の取次販売を行っていたとされる。

 竹久夢二生家は、岡山後楽園の近くにある夢二郷土美術館の分館となっている。「童子」などの夢二の肉筆画や資料を展示している。夢二が少年時代を過ごした部屋も残されている。残念ながら私が訪れた月曜日は休館日だった。

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竹久夢二ここに生る」と刻んだ石碑

 夢二は、明治17年1884年)にこの家に生まれた。16歳まで生家で過ごしたが、父

が商売を畳んで、九州の八幡製鉄所で働くこととなったため、一家で八幡に転居した。

 夢二も製鉄所で暫く働いたが、17歳の時に家出して上京し、画家としての道を歩み始めた。

 その後の夢二の抒情画家、詩人としての活躍は著名なので、ここでは触れない。

 竹久夢二生家の西側には、夢二が40歳になった大正13年1924年)に、自ら設計して現東京都世田谷区松原に建てた、アトリエ兼住居、少年山荘(山帰来荘)が復元されている。

 本物の少年山荘は、夢二没後の昭和9年(1934年)には取り壊されてしまった。

 昭和54年に、夢二の次男である竹久不二彦氏らの記憶と考証により、この地に復元された。

 瀟洒な洋館である。私も昔からこんな家に住みたいという夢がある。

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少年山荘

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 洋館でありながら、下部には日本の町家に特徴的な、ナマコ壁を巡らしているのが面白い。(当ブログ、令和元年11月21日の「小原宿」の記事参照)

 少年山荘の名は、夢二が中国の詩人唐庚の「山静かにして太古に似たり、日の長きこと小年の如し」という詩から取ったという。

 少年の日のように、長い一日をこのアトリエで過ごしたいという意味で名付けたそうだ。

 夢二は17歳で家を飛び出して画家になったが、16歳までの生家での暮らしが、忘れられないほど温かい記憶に彩られていたのではなかったかと思う。

寒風古窯跡群

 岡山県の旧邑久郡には、約130基の須恵器の古窯跡群がある。邑久古窯跡群という。6~12世紀の窯跡の遺跡である。当時の須恵器の生産地が北上し、伊部の地で備前焼に発展した。

 岡山県瀬戸内市牛窓町長浜には、邑久古窯跡群を代表する窯跡である国指定史跡・寒風(さぶかぜ)古窯跡群がある。

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寒風古窯跡群

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 寒風古窯跡群は、邑久古窯跡群の最南端に位置する。ここでは、7世紀前半から8世紀初頭までの約100年間、須恵器が生産された。概ね飛鳥白鳳時代と重なる。

 生産された須恵器は、杯、高杯、平瓶、長頸壺、甕、鉢の他に、陶棺、鴟尾、硯などもあった。

 鴟尾は寺院や官衙の屋根の上に載せられたものと思われる。当時、文房具である硯を使用したのは、役所くらいしかなかっただろう。官品を数多く生産する窯だったようだ。

 寒風古窯跡群は、5つの窯跡と、1つの古墳などで構成されている。

 寒風古窯跡群を発見したのは、明治29年(1896年)に当時の邑久郡牛窓町長浜に生まれた時実和一(号黙水)である。

 時実黙水は、昭和2年10月25日、近所の正八幡宮の参拝の帰りに、かつて寒風古窯跡群3号窯のあった場所で、ツマミ付き蓋を拾った。時実が考古学人生に一歩を踏み出した瞬間だった。

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時実黙水が陶片を見つけた3号窯跡

 時実は、その後寒風古窯跡群を中心に発掘と考古研究に打ち込み、郷土の文化財の調査と保護に尽力した。

 寒風古窯跡群の中には、須恵器生産を行う工人をまとめた有力者の墓と思われる、寒風古墳がある。

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寒風古墳跡

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寒風古墳説明板

 平成17年の発掘調査により、寒風古墳には、甕の破片を敷いた須恵器床という特殊な床を持つ石室があったことが判明した。

 古墳は、今は地表の下にあって、形は判然としない。

 寒風古墳の近くの斜面に、1号窯跡がある。1号窯跡には3つの窯跡がある。

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1号窯跡

 写真には説明板が3つ立っているが、手前から1-Ⅲ窯跡、1-Ⅱ窯跡、1-Ⅰ窯跡である。1-Ⅲ窯跡は7世紀前半、1-Ⅱ窯跡は7世紀中期、1-Ⅰ窯跡は7世紀後半に使用されていた窯の跡である。

 どれも全長約10メートルほどの穴窯だが、この中で1-Ⅰ窯跡が最も大きく、寺院の飾り瓦の鴟尾や陶棺などが焼かれていたそうだ。

 7世紀後半と言えば、日本各地に寺院が建立されていた時代だが、そんな寺院の瓦がこの地で造られていたのだろう。

 さて、窯の下部にある焚口からは、焼成に失敗した須恵器や、炭や灰、焼け落ちた窯の壁などが吐き出される。それらの廃棄物は、焚口の下の斜面に捨てられていく。そこを灰原という。

 1号窯跡の下の斜面は、灰原の跡である。

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灰原跡

 灰原跡は、発掘の結果、最大で約2メートルの深さまで廃棄物が堆積していることが分かった。

 灰原跡の地表には、今でも須恵器の破片や窯の壁の破片が散乱している。

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須恵器の破片

 7世紀の遺物が、未だに地表に転がっているのを見て、胸が高鳴った。こういったものを見つけて、考古学の世界に没入していった時実黙水の気持ちが分かる気がする。

 2号窯は、7世紀半ばの穴窯跡である。

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2号窯跡

 この周囲からは、陶棺、硯や、水の祭祀に使用された陶馬などが見つかっている。7世紀の日本を支えた最先端の工芸品を作る場所であった。

 この地から良港牛窓までは近い。ここで生産された須恵器は、船で畿内にも運ばれたことだろう。

 寒風古窯跡群の隣には、寒風陶芸会館がある。私が訪れたのは月曜日で休館日だった。

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寒風陶芸会館

 寒風陶芸会館は、鴟尾を載せた瓦ぶきの建物である。

 月曜日は、大抵の公立資料館は休館日である。今回月曜日に備前の史跡巡りをしたが、どの資料館も休館日であった。月曜日に史跡巡りをするのはやめた方がいいと分かった。

 寒風陶芸会館には、寒風古窯跡群からの出土品を展示しているという。やはり見たかった。それ以外にも、ここでは陶芸教室を開催している。

 この辺りには、多くの備前焼作家が窯を構えている。備前国は、7世紀から現在まで、陶芸の盛んな地域である。

 寒風陶芸会館の裏庭に、時実黙水の備前焼の像があった。

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時実黙水の像

 子供のように嬉しそうな時実の表情を捉えている。自分が地面から掘り出したものから、その時代の社会や経済の様子が分かってくる。これは確かに面白いことだろう。

 時実が陶片を拾った昭和2年は、彼が31歳の年だが、時実はこの時になって、一生楽しめる道楽を見つけたと言えるのではないか。 

錦海湾 若宮八幡宮

 虫明から、岡山ブルーラインという自動車専用道路に入る。この道は、備前市から岡山市までを結ぶバイパスのようなもので、かつては有料道路だったが、今は全線無料である。

 ブルーラインという名称から、この道路が海沿いを通っているものと思われがちだが、行程の大半は山中や平野部を通っている。

 しかし、快適なドライブ路である。思わずZC33Sに鞭を入れる。

 岡山ブルーラインの一本松SAの展望所から南を見ると、錦海湾を一望することが出来る。

 錦海湾は、岡山県瀬戸内市にある湾であるが、1950年代に大半が干拓され、塩田となった。

 現在は、錦海湾干拓地での塩田事業は行われておらず、瀬戸内市によりメガソーラーが設置され、自然エネルギーを生み出している。日本最大級のメガソーラーである。

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錦海湾(東側)

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錦海湾(西側)

 「錦海湾(東側)」の写真のように、堤防で海が堰き止められ、内部が干拓されている。塩田に使用されていた干拓地なので、農地には出来ない。

 「錦海湾(西側)」の写真の真ん中のやや右に、小さな丘が見えるが、ここは錦海湾がまだ海だったころには島だった大島である。

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大島

 大島の周囲も、メガソーラーで覆われている。写真のコンテナの間から、大島に登って行くことが出来た。

 大島の丘上には、小さな神社や公園があり、その隣に、この地域出身の実業家・津田資郎を称えるオベリスク型の石碑があった。

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津田資郎の石碑

 津田資郎は、明治16年に、現岡山県瀬戸内市邑久町尻海(しりみ)に生まれた。岡山税務署長を務めた父の仕事の関係で、岡山市に転居し、岡山中学校に入学した。岡山中学校では英語を習得した。

 津田は、父が病気で退職すると、岡山中学校を中退し、大阪の貿易会社に入社する。津田は語学の習得に非凡な才能を持っており、英語のみならず、中国に渡って中国語をも習得し、中国の商法を学んだ。

 日露戦争の勃発によって中国から帰国した津田は、神戸の佐藤勇太郎商店に入社した。語学の才を買われて貿易船の事務長となり、世界中を航海し、人脈を築く。

 その後、神戸で戸田商店、東和汽船株式会社を設立し、貿易事業を始める。

 津田の会社は、第一次世界大戦の影響でヨーロッパ各社が撤退したアジア市場に進出し、大成功を収めた。その後も銀行や商社を次々と設立した。また津田教育財団を設立し、岡山市の関西中学校(現関西高校)を援助した。

 そんな津田も、中耳炎により、大正11年に40歳で亡くなった。大正14年に、津田を顕彰するこの石碑が、地元に建てられた。

 津田が40年の短い生涯で成し遂げたことの大きさに圧倒されるばかりだ。 

 津田の地元である尻海の集落にあるのが、若宮八幡宮である。

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若宮八幡宮

 若宮八幡宮の拝殿の前には、二基一対の、南薩・琉球様式の石灯篭がある。瀬戸内市指定文化財である。

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若宮八幡宮拝殿

 この石灯篭は、台脚の刻銘から、安永七年(1778年)に、尻海出身の商人、薩摩屋藤太夫が寄進したものであることが分かっている。

 おそらく薩摩屋藤太夫は、交易を通じて、中国と交流のある琉球文化に接触することが多かったのだろう。

 なのでこのような石灯篭を寄進したものと思われる。

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若宮八幡宮石灯篭

 若宮八幡宮の石灯篭からは、異文化の香りがするが、本殿は日本最古の神社建築様式である神明造である。

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神明造の本殿

 神明造は、弥生時代穀物倉庫である高床式倉庫に起源を持つ建築様式である。しかしこの本殿は、まだ木が新しいので、最近建て直されたものであろう。

 また、若宮八幡宮には、寛政四年(1792年)に、秋田藩御用の廻船問屋平野屋らが寄進した欧風絵馬がある。岡山県指定文化財である。欧風絵馬は、現在は岡山県立博物館に寄託されている。

 拝殿に、欧風絵馬に関する冊子が置いてあった。

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 躍動感あふれる華麗な絵馬である。実物を拝観したいものだ。

 ところで、若宮八幡宮の隣に建つ神田稲荷神社の拝殿が、唐破風の上に望楼がある特異な建物だった。

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神田稲荷神社

 この望楼が何のためにあるのかは、考えてみてもよくわからない。ひょっとしたら、錦海湾が埋め立てられる前に、集落の目の前に迫っていた海を眺めるために設置されたものかも知れない。また拝殿前には備前焼の狐の狛犬があった。

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備前焼の狐

 岡山県には、備前焼狛犬を据える神社が多数あるが、狐を見たのは初めてである。

 錦海湾が干拓されるまで、尻海は海に面した港町だったのだろう。集落には、海と貿易を彷彿とさせる遺物が多く残されている。

 現代においても、海上輸送は最もコストのかからない輸送手段である。海に接した国は、それだけで経済的発展の条件を備えている。

 海に囲まれ、良港に恵まれた我が国は、海から数多くの富を得てきた。

 勇敢にも航海の世界に身を投じて、我が国の発展に貢献した先人達に敬意を表したい。

虫明 長島

 岡山県瀬戸内市邑久町虫明は、古くから風待ちの港として栄え、江戸時代には岡山藩池田家の筆頭家老伊木氏が陣屋を設け、沿岸警備に当たった。

 JA裳掛支所の北側にある工場の辺りが、茶屋と呼ばれた伊木氏の陣屋があった場所である。

 工場の中に、「伊木氏茶屋跡」の石碑が建っている。

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伊木氏茶屋跡の石碑

 伊木氏は、元々香川氏を名乗っていた。尾張の出である。初代忠次は、信長に仕え、永禄四年(1561年)に美濃伊木山城攻略戦の功により、信長から伊木姓を賜った。

 伊木忠次は、信長の家臣である池田家に仕えるようになった。

 戦国の世が終わりを告げ、徳川の時代となった。寛永九年(1632年)、池田光政岡山藩主になると、伊木氏三代目忠貞は、藩主から邑久、上道、和気、浅口の各郡を任せられた。

 忠貞は、交通の要衝である虫明の地に陣屋を設け、家老職以下家臣50数名を駐在させた。以後230年間、虫明は伊木氏の陣屋町となった。

 伊木氏茶屋跡の石碑から東に行く通りは、かつて武家屋敷が立ち並んでいた。今は古い建物は少ないが、武家屋敷の土塀は残っていた。

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武家屋敷の土塀

 この伊木家の墓所が、伊木家菩提寺である興禅寺裏山の千力山と、対岸の長島にある。

 興禅寺は、現在は廃寺となっている。無人の寺の前に薄が生えるばかりである。

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興禅寺

 興禅寺裏の千力山には、伊木家第3,4,8,11,12,13代の墓がある。

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伊木家墓所登り口

 この中で、虫明に陣屋を構えた第3代伊木忠貞の墓所を紹介する。忠貞の墓は、奥方の墓と並んで建てられている。御影石製なのか、あまり風化しておらず、彫られた文字もはっきり見える。

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伊木忠貞の墓

 約350年前の墓と思えない美しさだ。

 虫明の対岸にある長島には、ハンセン病の国立療養所である長島愛生園と邑久光明園がある。

 ハンセン病は、かつては「らい病」と呼ばれていた。らい菌に感染することにより発症する。発症すると、末梢神経が麻痺し、体の一部が変形するなどの後遺症が残る。

 らい菌の感染力は極めて弱く、例え感染したとしても発症することは稀である。栄養状況や衛生状況によって左右される。現在の日本の衛生状況ならば、らい菌に感染したとしても発症することはまずないと言われている。

 しかし、明治期の日本では、らい病は、コレラやペストと同じく感染性の強い疫病であると誤解された。患者だけでなく、患者の家族も差別され、婚姻を拒まれたりもした。

 昭和6年には、全ての患者を療養所に収容することを義務付けた「癩予防法」が成立する。昭和28年には、「らい予防法」に改正された。

 この法律の問題点は、患者の退所規定がなかったことである。一度療養所に収容されると、一生外に出ることが出来なくなった。この法律の存在が、ハンセン病が伝染病であるという世間の差別と偏見を強めたと言える。療養所で亡くなっても、家族の墓に入ることを拒まれた患者もいる。

 らい予防法が廃止されたのは、平成8年である。廃止後も、療養所に収容された患者は差別を恐れ、なかなか退所することが出来ないでいる。

 長島には、昭和5年に国内初のハンセン病国立療養所長島愛生園が出来た。その際、旧来からの島民は全員島から退去した。

 ハンセン病の国立療養所が2つある長島は、治療法が確立されるまで、患者と関係職員以外立ち入ることができない、本土から隔離された島であった。昭和63年に、ようやく長島と本土を結ぶ邑久長島大橋が開通した。この橋は、「人間回復の橋」と呼ばれている。

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人間回復の橋

 私は、らい予防法が廃止された平成8年にこの橋を渡ったことがある。当時の私は、運転免許取り立てで、車で遠くまで行けることにうきうきしており、550㏄の丸目のホンダ・トゥデイであちこちをドライブしていた。

 地図で見た長島が、ハンセン病の療養所のある場所であることを知らず、ただ面白そうだと思って訪れた。当時橋を渡ったところにあった詰所で止められ、追い返された。

 帰ってからこの島の来歴を知り、自分の不明を恥じた。

 あれから23年ぶりに橋を渡った。当時あった詰所は無くなっていた。

 長島には、先ほど説明した伊木家の墓所がある。第5,6,7,9,10代の墓がある。この墓所は、どの参考書を読んでも、ネットで調べても位置が分からなかった。邑久長島大橋を渡ったところにある島内地図を見て、ようやく場所が分かった。 

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伊木家の墓所(長島)

 印象として、石垣や土塀が築かれていて、千力山の墓所よりも手間がかかっていると感じる。

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第6代伊木忠興の墓

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第6代伊木忠興の墓

 周囲の土塀の大半は風化して崩れているが、一部残った土塀の上には、瓦が葺かれている。

 最も奥にあるのは、第9代伊木忠真の墓である。土塀で囲まれている。

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第9代伊木忠真の墓

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 長島は、東西に細長い。西側にあるのが、邑久光明園である。大阪の外島保養院が、昭和13年に当地に移転し、開園した。

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邑久光明園

 島の東側には、昭和5年に国内初のらい病国立療養所として開園した長島愛生園がある。同年に建てられた旧事務本館が、平成15年に長島愛生園歴史館としてオープンした。

 歴史館は、事前予約すれば見学することが出来る。ハンセン病と愛生園の歴史に関する資料が展示されており、広大な園内を巡る見学コースもある。語り部の語りを聞くコースもある。

 私が訪れたのは、月曜日で、開館していなかった。

 長島愛生園の手前に「この先立ち入り禁止」の看板があったので、そこで引き返した。

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長島愛生園の石碑

 長島愛生園の手前には、渚があって、そこから沖合の小豆島がよく見えた。私が長島を訪れたのは年末で、陽が穏やかに照っている日だった。

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長島の渚

 今は穏やかに陽に照り映えるこの海も、外界から完全に隔離されていたかつての患者たちからすれば、絶望の海だっただろう。

 今邑久長島大橋がかかっている水路では、島から脱出を図った患者が流されて水死したこともあるという。

 島内には、墓もあり、島外の先祖の墓に入ることすら出来なかった患者が眠っている。
 渚からの眺めは美しいが、心に痛みを感じる美しさであった。

加東市 持宝院 観音寺

 兵庫県加東市社の佐保神社の東側には、かつての門前町の通りの面影を残す商店街がある。

 佐保神社からその商店街を北上すると、すぐ左手に見えてくるのが、持宝院(真言宗)である。

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持宝院山門

 持宝院には、関西建築界の父と言われる、武田五一(たけだごいち)が設計した大師堂がある。

 武田五一は、明治5年に広島県福山市に生まれた。東京帝国大学を卒業した後、ヨーロッパに留学し、そこで近代建築を学んだ。昭和13年に没するまで、主に関西の数々の建築に携わった。当ブログで紹介したものでは、昭和8年に再建された書写山圓教寺摩尼殿が、武田五一の設計である。

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持宝院大師堂

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 大師堂は、大正15年の建築である。国登録有形文化財となっている。

 大師堂で特徴的なのは、向拝がやたらと長いことである。武田が、何を思ってこんな長い向拝を設計したのかは分からない。

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 さて、堂内に入ると、先ず巨大な弘法大師像が目に入る。これも近代に造られたものだろうが、ユーモラスなお姿だ。

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弘法大師

 弘法大師空海は、日本が世界に誇る偉大な宗教家、思想家であると思うが、釈迦やイエスやマリアは別にして、実在の人物でこれほど像が造られた人というのは、世界を見ても稀なのではないか。

 実在した日本人の中では、間違いなく弘法大師が一番であろう。

 弘法大師像の頭上の天井は、立派な格天井である。

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格天井

 加東市には、武田五一が設計した寺院建築が多数ある。後々紹介していくことになるだろう。

 さて、持宝院から更に約100メートル北上した場所に、臨済宗の寺院、観音寺がある。

 ここは、加東市家原という地名である。

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観音寺表門

 観音寺は、家原浅野家の菩提所として、貞享三年(1686年)に創立された。

 寛文十一年(1671年)に、赤穂藩浅野家から加東郡内十一ヶ村3500石を分地された浅野長賢は、家原の地に陣屋を構え、旗本家原浅野家の祖となった。

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観音寺本堂

 観音寺は、創立以来、家原浅野家の香華所として崇敬された。

 赤穂浅野家は、元禄十四年(1701年)の浅野内匠頭の殿中刃傷事件で断絶となったが、家原浅野家は廃藩まで7代約200年に渡り存続した。

 弘化四年(1847年)、観音寺の住職であった善龍は、7代目当主浅野長祚と図って、観音寺境内に、赤穂浅野家4代の墓碑と四十七士の墓碑を建立した。

 廃藩後、観音寺は荒廃したが、明治17年、西田玄孚尼によって再興された。

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赤穂義士菩提所の案内

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四十七義士の墓碑案内図

 境内の奥には、四十七士の墓碑がある。とは言え、四十七士の墓は、東京都港区の泉岳寺にあるので、この墓碑は墓というより供養塔である。

 墓碑が出来てから今日まで、毎年12月14日には、盛大に義士祭が行われてきた。

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赤穂義士菩提所

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 中央に浅野家四代の墓碑があり、向かって手前右側が大石内蔵助の墓碑、手前左側が大石主税の墓碑である。そして周囲を囲むように、他の義士たちの墓碑が並んでいる。自刃した義士の戒名の上には、「刃」の文字が彫られている。

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大石内蔵助の墓碑

 中には、最近再建されたような新しい墓碑もあった。堀部安兵衛の墓碑などはそうである。

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堀部安兵衛の墓碑

 赤穂義士ゆかりの地は、日本各地にあって、そこでは毎年討ち入りの日に義士祭が行われている。

 なぜ赤穂義士の話は日本人に好まれるのだろう。

 主君の無念を晴らすため、それぞれ個性のある人たちが、吉良邸討ち入りという目標に向けてどんどん収斂して行く過程が面白いのだと思う。

 そして、目標を達成してから、主君の墓に報告に行った後、潔く縛について自刃したという姿に人々は感動するのだろう。

 後世の人々に影響を与える行動の第一条件とは、一つのことをとことんまでやり抜いたということだと思う。

加東市 佐保神社 明治館

 広渡廃寺跡歴史公園から北上し、加東市に入る。加東市上田にある大芋(おおくも)神社の明神鳥居は、寛永二年(1625年)の銘がある、凝灰岩製の鳥居である。

 鳥居は、大芋神社の東側参道の東端に建っている。

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大芋神社鳥居

 この鳥居は、江戸時代初期の形態をよく留める貴重なものとして、兵庫県指定文化財となっている。

 この時代の鳥居は、柱が太くて短く、武骨な姿をしている。そこがいいと思う。

 ここから更に北上し、加古川を渡った加東市河高にある住吉神社の鳥居も古いものである。

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住吉神社鳥居

 こちらは、大芋神社鳥居より更に古い。銘は残っていないが、建築様式から室町時代のものと言われている。この鳥居も、凝灰岩製である。

 惜しむらくは、扁額と沓石が後世に補修されたものであることである。確かに足元は新しく、違和感がある。

 住吉神社から、加東市の中心である加東市社の佐保神社に行く。

 加東市は、平成18年3月に、加東郡社町滝野町東条町が合併して出来た市である。

 旧社町には、北播磨県民局や加東警察署、加東市役所があり、地域の中心となっている。

 私は兵庫県に長年住んでいるが、佐保神社の存在を知らず、社町がなぜ社町という名称なのかも知らなかった。

 今回佐保神社に参拝して、ここが北播磨を代表する立派な神社で、旧社町の名称は、その門前町として発展した佐保社(さほやしろ)村からきているのだと分かった。

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佐保神社瑞神門

 佐保神社は、第11代垂仁天皇二十三年の創建と伝えられる。今の加西市の鎌倉峰に佐保明神が天降り、鎮座したという。

 佐保神社は、養老六年(722年)に、この地に遷座した。当初は坂合神社と呼ばれていたが、いつのころからか佐保神社と呼ばれるようになったという。

 今の加西市周辺から加東市周辺に移住して土地を切り開いた人々が、氏神遷座させたのであろうと思われる。

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佐保神社拝殿

 佐保神社は、鎌倉時代には、朝廷や幕府の崇敬を集めて隆昌を誇った。尼将軍北条政子は、八丁四方に内の鳥居、一里四方に外の鳥居を造営させた。

 室町期には、度々の争乱で荒廃したが、江戸時代に入ると、姫路藩池田輝政の祈願所として社領10石を寄せられた。

 現在の本殿は、延享四年(1747年)に再建されたものである。

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佐保神社社殿

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佐保神社本殿

 本殿には、東殿(向かって右)に天照大神、中殿に天児屋根命、西殿(向かって左)に大己貴命が祀られている。

 本殿のところどころに見事な彫刻がある。

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脇障子の彫刻

 佐保神社は、武家が崇敬したことを偲ばせる、雄勁な神社である。

 佐保神社から南に200メートルほど歩くと、旧加東郡公会堂であった明治館がある。

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明治館石門

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明治館薬医門

 明治館は、加東郡公会堂として、明治44年に着工し、大正元年に完成した、近代の和風建築である。

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明治館説明石

 加東郡公会堂は、一時は老朽化していたが、社町は、地域の誇りである明治大正期の建造物を修復工事した。

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明治館

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 内部見学は出来なかったが、玄関扉のガラスから中を覗き見ると、広大で高い天井を持ったホールのような部屋が見えた。地域の様々な催しが、この建物で行われたのであろう。

 史跡巡りで、近代の和風建築を紹介したのは初めてである。神社建築や寺院建築と異なって、どこか西洋の影響を感じさせる和風建築である。

 加東市社は、奈良時代に建立された佐保神社の門前町である。奈良時代から続く町というのも、思えば歴史遺産と言える。

 

広渡廃寺

 浄土寺から北西に2キロメートルほど行った兵庫県小野市広渡町に、広渡廃寺跡歴史公園がある。

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広渡廃寺跡歴史公園

 ここは平成11年に史跡公園として整備された。

 広渡廃寺は、7世紀後半に開基された広渡寺の跡である。昭和48年から昭和50年にかけて発掘された。現在は、国指定史跡となっている。

 史跡公園の中には、広渡廃寺から出土した瓦などの出土品等を展示する資料館がある。また、かつての基壇も再現されている。

 公園の南西隅には、在りし日の広渡寺を復元した20分の1の模型が設置されている。

 中門と回廊に囲まれた空間に、東西の塔と金堂、講堂がある、薬師寺式の伽藍配置であったことが分かる。

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広渡廃寺模型

 この模型、ジェラルミンとセラミックで出来ていて、フッ素樹脂で塗装されている。設置されてから20年は経っているだろうが、全く色あせていない。

 資料館には、当時の広渡寺の様子を描いた水彩画が展示してある。それを見るとイメージを掴みやすい。

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広渡寺の再現図

 神戸大学が保管する「浄土寺縁起」には、鎌倉時代初頭には、広渡寺を含むこの辺りの古来からの寺院が、大破壊を受けて荒廃していたことが書かれている。広渡廃寺から発掘される遺物は、平安時代後期までのものなので、平安時代末期の争乱で荒廃したのではないかと思われる。

 公園の南西に、小高い丘がある。そこから広渡廃寺の全景を眺めることが出来る。

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広渡廃寺跡全景

 フェンスで囲まれた模型の向こうに、再現された基壇が広がる。

 基壇とは、建物の重量を支えるための基礎部として築かれた盛り土の台のことで、固い地盤の上に土や砂を少しづつ交互に突き固めていく版築という技法で築かれている。基壇の周囲は、化粧と呼ばれる外装がある。広渡寺は、乱石積みという化粧が行われていた。

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乱石積みの化粧の出土状況

 広渡廃寺は、この乱石積みの化粧を含めて、基壇が再現されている。

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南門跡から北を望む

 基壇の上には、礎石が置かれているが、置かれているものが当時の礎石なのかどうかは分からない。

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中門跡

 西塔の基壇の中央には、小野市指定文化財の西塔心礎が設置されていた。

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西塔基壇

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西塔心礎

 かつてあった広渡寺西塔の心柱の重みを受け止めていた礎石である。これを見て、石にも表情があるものだと感じる。

 東塔、西塔の背後には、金堂、講堂、北門の基壇が控えている。

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手前から金堂、講堂、北門の基壇

 金堂は、今の寺院でいう本堂で、ご本尊が祀られた建物である。広渡寺の金堂は、鴟尾の載った建物であった。

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金堂の屋根の図

 金堂の基壇跡からは、鴟尾や鬼瓦の破片などが発掘されている。

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発掘された鴟尾の破片

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発掘された鬼瓦の破片

 また、奈良時代から平安時代後期にかけての軒丸瓦、軒平瓦も発掘されている。時代ごとに模様が変遷している様子が分かる。

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軒丸瓦、軒平瓦の変遷

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 奈良時代前半の軒丸瓦の方が、素朴な模様で、大陸の寺院を思わせる。

 金堂には、土製の仏像(塑像)が祀られていた可能性が高い。というのは、金堂基壇跡から、土製仏像の螺髪が出土しているからである。

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出土した螺髪

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 私は、土製の仏像を見たことがない。白鳳時代には一般的だったのだろうか。

 「浄土寺縁起」には、広渡寺に祀られていた薬師如来を、浄土寺薬師堂に運び、ご本尊にしたと記載している。広渡廃寺の法灯を継いだのが、浄土寺と言えるのではないか。

 今回は地味な出土品を多く掲示した。出土品の多くは破片に過ぎないものばかりだ。このような破片や土壇や礎石からでも、広渡寺の模型のような、壮大な寺院がここにあったことを想像することができる。

 わずかな史料からでも、過去の建物だけでなく、人々の生活や出来事を想像し、復元することができる。

 考古学や歴史は、推理小説のように面白いものだ。