北曽根城跡 法泉寺

 再び岡山県和気郡和気町を訪れた。

 JR和気駅の北側にある富士見橋を渡ると、目の前に聳えるのが、和気富士と呼ばれる城山である。標高173メートル。そう高い山ではない。

 

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城山

 城山の山上には、かつて北曽根城という山城があった。別名黒山城という。

 戦国期に赤松家に反旗を翻した浦上宗景の家臣、明石景行が開いた城である。

 赤松家の家臣でありながら主家を攻撃した浦上宗景も、今度は自分の家臣の宇喜多直家に裏切られ、滅ぼされてしまう。

 明石景行から城主の座を継いだ弟の宜行は、宇喜多家の反乱に呼応し、浦上家を攻撃した。備前戦国史は、裏切りと謀略の歴史だ。

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登山口

 城山への登山口は、麓にある稲荷神社にある。最近山歩きをするようになって気づいたが、大概の山の麓には神社がある。山自体が日本人に信仰心を起こさせるのだろう。

 低山なので、15分ほどで山頂に着く。途中、ちょっとした石階があって、そこからの眺めが良かった。

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石階

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 山頂には、小さな祠と磐座がある。その横が過去に本丸があった場所のようだが、今はアンテナ塔が建っている。

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祠と磐座

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北曽根城跡説明板

 唯一城跡らしい遺構として残っているのは、祠の周辺の石垣である。しかしそれもささやかなものに過ぎない。

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山頂近くの石垣

 この城も、主家の宇喜多家が織田家に降伏して、その後秀吉の時代になって、宇喜多秀家五大老に入ったころには不要になったことだろう。

 次なる目的地の永井家住宅に行く。和気町和気にある。

 永井家住宅主屋は、国登録有形文化財である。大正5年(1916年)の建築で、歯科診療所として使われていた建物である。

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永井家住宅

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 今は使用されていない建物であるが、内部は見学できない。白いペンキ塗りの壁に赤いポストがアクセントになっている。地元では最も古い洋館である。

 さて、次なる目的地の法泉寺に行く。

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法泉寺全景

 法泉寺は、和気町益原にある日蓮宗不受不施派の寺院である。不受不施派とは、法華経を信仰しないもの(謗法)から布施を受けず(不受)、謗法の供養もしない(不施)、という日蓮の当初の教えを固く守る宗派である。

 秀吉が京都方広寺大仏を造った時に、千僧供養を行うことにした。秀吉は仏教各宗派に千僧供養への参加を求めた。この時に、日蓮宗の僧侶の大半は、権力者である秀吉に逆らうことをやめて、千僧供養に参加するのも已む無しという考えに傾き、受布施派となった。

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法泉寺

 しかし、京都妙覚寺の日奥だけは、不受不施を貫いて、千僧供養には不参加とすべしと主張し、日蓮宗の中で孤立した。

 その日奥が、元和五年(1619年)、この地を訪れ、元々禅寺だった法泉寺を日蓮宗不受不施派に改宗させる。

 寛文年間には、徳川幕府により、不受不施派は、キリスト教と同じく禁教となった。岡山藩も、幕府の意向を受け。不受不施派を徹底弾圧した。背いた者は、死罪流罪入牢といった刑罰を受けた。

 信者は地下に潜った。大半の信者は、表面上他宗派の檀家となって、内心で不受不施派を信仰する「内信」になった。

 文政二年(1819年)には、この地の信者が、不受不施派の僧侶日学を匿ったため、全員入牢させられた。益原法難というらしい。

 明治9年(1876年)、明治政府により不受不施派の禁教が解かれ、この地に妙覚寺益原教会所が出来、明治36年1903年)に法泉寺が再興された。

 法泉寺本堂は、明治らしい和洋折衷の擬洋風木造平屋建の建物である。洋風の仏教寺院本堂というのも珍しい。

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法泉寺本堂

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 観光客は私以外誰もいない。不受不施派だからかは分からないが、賽銭箱などはない。誤って他宗派の観光客から布施を受けることがないようにしているのだろうか。私は他宗派だが、「法華経」もいいお経だと思うので、本堂に向かって頭を下げた。

 本堂の隅に、元禄四年の銘のある梵鐘があった。

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梵鐘

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 元禄四年には、不受不施派は弾圧されている筈である。この梵鐘がどういういわれを持つのか知りたくなった。

 かつての日本には、信仰のために命を落とした人々が多数いた。人間に生命を捧げる気持ちにさせる信仰というものの不思議を思った。

山伏峠石仏 玉丘古墳群

 兵庫県加西市玉野町にある山伏峠には、兵庫県指定文化財の2基の石棺仏がある。 

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山伏峠石棺仏

 道側の1基は、高さ2.25メートル、幅1.24メートル、厚さ0.4メートルの大きな家型石棺に、蓮華座上の阿弥陀坐像を彫刻している。

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 奥にあるもう1基は、高さ2.1メートル、幅1.05メートル、厚さ0.18メートルの長持型石棺の蓋石に、阿弥陀坐像と6体の化仏を彫刻している。

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 製作されたのは、南北朝時代初期とされている。

 山伏峠の石棺仏の前の道は細い道で、今はサイクリングロードとして自動車の通行が禁止されている。そのためか、昔の薄暗い峠道の雰囲気を残す寂とした道に感じた。

 峠道を見守るように設置された石棺仏を、昔の人はどんな思いで見たことだろう。山賊や追剥が跋扈する時代のこと故、昔の通行人は峠を歩きながら石棺仏を見て、ほっと一息ついたのではないか。

 さて、加西市玉丘町には、国指定史跡玉丘古墳群がある。

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玉丘古墳群地図

 玉丘古墳群は、現在は広々とした史跡公園として整備され、私が訪れた時も、ウォーキングや犬の散歩を楽しむ人々が往来していた。

 この古墳群の中で最大の玉丘古墳は、全長109メートルの前方後円墳で、兵庫県下第7位の大きさであり、北播磨では最大の古墳である。

 玉丘古墳は、5世紀前半の築造とされ、年代的には仁徳天皇陵と同時代のものである。おそらく播磨国造家の有力者の墓だろう。

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玉丘古墳

 私は、玉丘古墳の周辺を歩いた。航空写真では、周濠内に古墳に渡る小道のようなものが写っているが、見つけることが出来なかった。

 玉丘古墳は、明治17年に盗掘されていて、石棺は破壊されているそうだ。

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玉丘古墳の石碑

 玉丘古墳は、年代的には5世紀前半のものだが、奈良時代の「播磨国風土記」には、この古墳にまつわる伝説が記載されている。

 第23代顕宗天皇、第24代仁賢天皇は、第17代履中天皇の子・市辺押磐皇子の子である。同母兄弟であった。仁賢天皇が兄で、顕宗天皇が弟である。

 顕宗天皇は幼名を袁奚(おけ)、仁賢天皇は幼名を意奚(おけ)と言った。

 第21代雄略天皇は、即位する前に、自分のライバルとなる皇子を皆殺害して帝位についた。雄略天皇の従兄だった市辺押磐皇子も、雄略天皇により殺害された。

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玉丘古墳遠望

 市辺押磐皇子の子の袁奚、意奚は、雄略天皇から逃れるため、播磨国美嚢郡(現兵庫県三木市)の志染(しじみ)の岩室に隠れ住んだ。

 播磨国で、この2人の皇子は、播磨国造許麻(こま)の娘である根日女(ねひめ)に出会い、2人同時に根日女に恋をする。根日女は婚姻を承諾するが、2人の皇子がお互いに譲り合っているうちに、根日女は病没してしまう。

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玉丘古墳

 それを伝え聞いた2人の皇子は、「朝日夕日隠れぬ地に墓を造り、その骨を収め玉をもって飾れ」と命じて、玉丘古墳を造らせたという。

 雄略天皇の子の第22代清寧天皇は、自分に子がいなかったため、皇統を継ぐ者を探したところ、播磨国に袁奚、意奚の兄弟が隠れ住んでいることを知り、喜んで2人を迎えて皇統を継がせた。

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玉丘古墳の周濠

 袁奚、意奚兄弟が播磨国に逃れていたのは、5世紀後半のことなので、古墳の築造年代からすると、玉丘古墳が根日女の墓ということはないだろう。

 しかし、玉丘という優美な名前からすれば、根日女の墓だとした方がロマンを感じる。

 玉丘古墳の周りには、陪塚と呼ばれる、玉丘古墳の被葬者の関係者の墓と思われる古墳が点在する。

 クワンス塚古墳と呼ばれる円墳は、周濠を巡らした綺麗な円形で、雰囲気のある古墳であった。

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クワンス塚古墳

 玉丘古墳公園の入り口近くには、加西市佐谷町にあった愛染古墳が移築復元されている。7世紀半ば築造の円錐状の円墳で、内部の石室と石棺も外から見ることが出来る。

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愛染古墳

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石室

 「播磨国風土記」が書かれたのは、玉丘古墳が作られてから約300年後である。

 その間でも、玉丘古墳の本来の被葬者が誰か分からなくなってしまった。

 伝承というものは、こんな風に曖昧なものであるが、かといって根日女が実在しなかったとも言い切れない。

 伝承は伝承として、それなりに意味を持っている。フィクションであったとしても、それが人々の間で言い伝えられてきたことは「事実」である。人々が言い伝えた事実も、それはそれで尊重しなければならないと思う。


 

加西市拾い歩き

 兵庫県加西市繁昌町にある乎疑原(おぎはら)神社は、奈良時代の創建とされている。

 平安時代延喜式にも載っていて、加東郡加西郡35ヶ村の総社として、例祭には朝廷から幣帛が供進されていた。

 祭神は、元々は大国主命と少名彦命であったが、近くにある真言宗の百代寺の隆全が、菅原道真公を合祀した。今では「繁昌の天神様」と呼ばれ、地元の崇敬を集めている。

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拝殿

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本殿

 乎疑原神社の石造鳥居は、なかなか古い鳥居である。加西市指定文化財になっている。

 鳥居の隣にある石祠にかつて安置されていた石造五尊像は、白鳳時代のものと伝えられる。石造五尊像の実物は、現在は奈良国立博物館に保管されている。

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石造鳥居と石祠

 今も石祠は残っているが、中にある石仏は、かつてあったもののレプリカだろう。

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石祠

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石造五尊像

 中央に如来坐像、左右に各2体の菩薩立像を配する。石造五尊像は、いつかは分からぬが、乎疑原神社の東側を流れる普光寺川から拾い上げられて、天神の森の石仏と呼ばれるようになった。

 石造五尊像は、後で説明する繁昌廃寺の石仏が、普光寺川に捨てられて、後に拾われたものではないか。

 乎疑原神社は、かつては寺院と一体化していたものと思われる。神社ではあるが、鐘楼と銅鐘がある。

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鐘楼

 乎疑原神社は、小高い丘の上にあるが、丘の東側に、白鳳時代奈良時代には繁昌寺という寺院があった。

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繁昌廃寺の図

 繁昌廃寺の跡からは、南北の門、金堂、講堂、塔、西面土塁が見つかった。東塔の遺構は見つかっていないが、かつては金堂の南側に塔が2つ並ぶ薬師寺式の伽藍配置だったと思われる。

 繁昌廃寺のあった場所は、今は田んぼになっている。

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繁昌廃寺の跡

 繁昌廃寺の西側の丘の斜面には、繁昌廃寺の軒瓦を製作していた山の脇瓦窯跡がある。兵庫県指定史跡となっている。

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山の脇瓦窯跡

 ここから、奈良時代前期の、繁昌廃寺創建当時のものと思われる、素縁八葉花紋軒丸瓦と忍冬唐草紋軒平瓦が出土した。今は、兵庫県立歴史博物館に展示してある。

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繁昌廃寺の瓦

 白鳳期や奈良時代の寺院やその遺物からは、大陸の風の匂いがするようで、ロマンを感じる。大陸から先進の文化が入ってきた、活気ある時代だっただろう。

 この時代は渡来人の時代でもあった。渡来人が、大陸から仏教を始めとする様々な文化を日本に持ち込んだ。奈良時代は、国際色豊かな、色彩鮮やかな時代である。

 今の日本も実質的に移民社会に移行していると言われているが、飛鳥白鳳や奈良時代のことを考えると、元々日本は移民国家だったのではないかと思えてくる。 
   繁昌廃寺から北に行った加西市池上町にあるのが日吉(ひえ)神社である。

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日吉神社

 創建は、淳和天皇の天長年間(824~834年)で、慈覚大師円仁が比叡山の地主神、山王権現を勧請したのがおこりだという。

 日吉神社の明神鳥居は、元和六年(1620年)の年号が刻まれている。元和以前に建立された鳥居はわずかしか残っていない。貴重な文化財である。

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明神鳥居

 実は、この鳥居の隣には、この地域では有名なうどん屋「がいな製麵所」がある。私もがいな製麵所で何度か食事をしたが、来るたびにこの古い鳥居が気になっていた。今回初めてまじまじと見たが、こんなに古いものとは知らなかった。

 随身門は、19世紀中ごろの建物である。

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随身

 随身門を入ってすぐ目の前にある拝殿は、桁行七間の堂々たる建物である。

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拝殿

 拝殿は、文化二年(1805年)に建てられた。

 本殿は、七間社流造で、七社立会神事の際に、外陣に7つの神輿が並べられるように作られた巨大な本殿である。

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本殿

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 本殿は、安政三年(1856年)の建立である。確かに大きな本殿で、廣峯神社本殿並みの大きさだ。

 日吉神社随身門、拝殿、弊殿、本殿は、七社立会神事が始まった中世の祭礼空間を色濃く残すものとして、加西市指定文化財となっている。

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 史跡巡りをして感じるのだが、ほとんど参拝客のいない神社仏閣でも、著名な神社仏閣より好印象を抱く場合がある。

 どんな史跡にも、伝えられてきた由来があるものである。人々の様々な願いや思いが込められた由来あるものを蔑ろにすることは出来ない。

 史跡に上下はつけられないとしみじみ思う。

周遍寺密蔵院 清慶寺

 北条鉄道網引駅のすぐ近くには、周遍寺密蔵院がある。ここは高野山真言宗の寺である。

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周遍寺密蔵院

 密蔵院の楼門の前の広場に、観音像を中心にして、古い墓石などが集められた一角があった。

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墓石群

 その墓石群に向かって右側の手前に、古い石棺仏がある。石棺仏とは、古墳に納められていた石棺を石材に転用して作られた仏像である。

 播磨は、石棺仏の宝庫と言われている。全国に約200基ある石棺仏の約9割が播磨地方に集中している。播磨の中でも、旧加東郡加西郡加古郡印南郡に特に多い。

 その理由はよくわかっていないが、これらの地方は、竜山石や高室石、長石の産地で、小型の古墳にも石棺が使用されている。

 石棺仏の材料である石棺が元々豊富にあったということだろう。

 石棺仏の制作年代は、鎌倉時代から室町時代までに限定されている。

 密蔵院の石棺仏は、阿弥陀如来である。鎌倉時代の制作と言われている。

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阿弥陀石棺仏

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 正面から見ても、石棺仏だとは分からない。背後から見たら、石棺の上蓋を使って造られたものだと分かる。

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石棺仏の裏

 元々古墳に使われていた古い石棺を使った石仏なので、なんとも古拙な味わいがある。しみじみといいものである。

 さて、加西市中野町にある浄土宗の寺院、南帝山清慶寺に行く。

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南帝山清慶寺

 ここには、後南朝の皇子の墓とされる南帝塚がある。

 日本の皇室が南北に分かれて争った南北朝の争乱も、明徳三年(1392年)の明徳の和約によって一応終焉となった。

 南北それぞれの皇統から交替で天皇を出すという両統迭立(りょうとうていりつ)の約束の下、両朝が合体した。

 しかし、北朝側が、後小松上皇の次に皇子の称光天皇を即位させたことに、南朝系の後亀山上皇が反発し、再び南朝の旗を上げて挙兵した。明徳の和約の後に再起した南朝が、後南朝である。

 谷崎潤一郎が、後南朝の歴史にロマンを感じて、歴史小説を書くために、吉野に取材に訪れた経験から書いたのが、「吉野葛」である。

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清慶寺

 後南朝は、嘉吉三年(1443年)に、皇位継承の正当性の証である三種の神器の内、剣と神璽を宮中から奪い取る。禁闕の変である。

 その後剣は北朝側に取り返されるが、神璽は後南朝が奥吉野に隠匿したままだった。

 ここで登場するのが、嘉吉の変で滅ぼされた赤松家の旧臣たちである。彼らは、室町幕府から、神璽を後南朝から奪い返せば赤松家を再興させるという約束を取り付け、後南朝に偽って仕え、神璽のありかを1年かけて探る。

 そして長禄元年(1457年)、赤松旧臣は、後南朝の自天王(尊秀王)、忠義王という二人の皇胤を殺害し、神璽を奪い去る。

 しかし、吉野の民の反撃にあい、自天王の首と神璽は後南朝に取り返される。

 翌長禄二年に、赤松旧臣は再度吉野を襲撃し、神璽を奪い去る。これが長禄の変である。

 清慶寺境内にある南帝塚の上には、宝篋印塔が建つが、表面に「仁尊親王御陵」と彫られている。

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南帝首塚

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 しかし、調べてみても、この仁尊親王という人が誰なのかが分からない。

 また、後醍醐天皇御曽孫と彫られているが、後醍醐天皇の曽孫の世代は、長禄より30年近く前に亡くなっている。

 様式からして、この宝篋印塔は江戸時代に建てられたものだろう。

 宝篋印塔の側面には、長禄三年八月二五日と刻まれているが、長禄の変の翌年である。なぜこの年月日が宝篋印塔に刻まれているのかは分からない。

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 由来を教えてもらいたいものである。

 境内には、その他に、正和三年(1314年)の銘を持つ石棺の板碑がある。家形石棺蓋石を使用して造られたものである。

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板碑

 板碑には、阿弥陀三尊の種子が薬研彫で彫られ、その上に三面の宝珠が刻まれている。種子(しゅじ)とは、密教で、仏を象徴する一音節の呪文(真言)を指している。

 板碑は、兵庫県指定文化財である。

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板碑の側面

 境内奥には、兵庫県指定文化財の石造宝篋印塔がある。

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石造宝篋印塔

 この石造宝篋印塔には、東西南北四面に仏坐像が彫られている。

 また、嘉暦二年(1327年)十一月七日の銘が刻まれている。四方に仏坐像を刻む手法は他に類例がない珍しいものである。

 鎌倉時代から室町時代にかけて、石棺仏を造るため、あちこちの古墳から石棺が掘り出されたものと思われる。どうせ造るなら、新しい石材から造ればいいものをと思うが、その時代の人たちがそうしなかったのにも何かの理由があるのだろう。

 その時代に自分がいて、石仏を造るとしたらどうしたか、と想像を膨らませるのも楽しいものだ。

鶉野飛行場 北条鉄道網引駅

 兵庫県加西市鶉野町にある鶉野飛行場跡は、かつての姫路海軍航空隊の基地の跡である。近くに川西航空機株式会社姫路製作所が併設されていた。

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鶉野飛行場跡

 かつてはここに、全長1200メートル、幅60メートルの滑走路があった。今は滑走路跡に砂利が敷かれているが、遠くまで続く平らな砂利の空間を見ると、ここに航空機の滑走路があったことを偲ぶことが出来る。

 姫路海軍航空隊は、海軍航空機のパイロットを養成するために、昭和18年10月1日に開設され、この鶉野の地に飛行場が建設された。

 飛行場は昭和19年5月に完成した。

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鶉野飛行場見取図

 ここに全国からパイロット候補の若者が集まり、訓練に明け暮れた。訓練機としては、97式艦上攻撃機が使われた。

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97式艦上攻撃機

 97式艦上攻撃機は、真珠湾攻撃などの大東亜戦争緒戦で、相当な戦果を上げた攻撃機(魚雷で敵艦を攻撃する飛行機)である。

 ここで私は大東亜戦争という呼称を使った。当ブログを続けていくうちに、「先の戦争」を取り上げることも出てくるだろう。そうすると、「あの戦争」の呼称をどうするかという問題が出てくる。私は大東亜戦争という呼称を使う。

   昭和16年12月12日、当時の東條内閣は、「今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス」と閣議決定した。

 大東亜戦争という呼称は、日本政府が「あの戦争」の呼称として正式決定したものである。

 大東亜戦争という呼称は、大東亜共栄圏を思い出させることから、戦後の日本では、当初はGHQが使用を禁止し、昭和27年の日本独立後は日本人自身が使用を控えてきた。 

 大東亜戦争の「大東亜」は、単に地理的な範囲を指す呼称である。アメリカは、「あの戦争」を「太平洋戦争」と呼ぶが、アメリカが戦闘した範囲は概ね太平洋及びその沿岸である。

 日本が戦った範囲は、太平洋とその沿岸のみならず、中国大陸、インドシナ半島インドネシア、インド洋にまで及ぶ。

 当時の日本政府は、「支那事變ヲモ含メ」とあるように、中国大陸での戦いも範囲に含める呼称として、大東亜戦争を採用した。

 私がこの呼称を使うのは、単に日本政府が正式名称として閣議決定したからで、大東亜共栄圏構想を賞賛しているからではない。

 自国が戦った戦争の呼び名ぐらい、自国が決めた呼び名で呼びたいというだけである。

 鶉野飛行場で訓練を受けた姫路海軍航空隊佐藤清大尉以下63名は、21機の艦上攻撃機を使用し、神風特別攻撃隊白鷺隊を編成した。白鷺隊は、昭和20年4月6日から5回に渡り鹿児島県串良基地から沖縄に向けて出撃し、沖縄近海の米国艦艇に対して飛行機もろとも体当たり攻撃を行い、壮烈な戦死を遂げた。翌日の4月7日には、沖縄に向かった戦艦大和が撃沈されている。こうして若い命は散っていった。

 鶉野飛行場の丁度真ん中辺りに、姫路海軍航空隊の碑が建っている。白鷺隊のことについても彫られている。

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平和祈念の碑

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 言葉は出ない。ただただ壮絶な戦死を遂げた日本兵に対しても、神風特別攻撃隊の攻撃で戦死した米兵にも、頭を下げて冥福を祈るのみである。

 鶉野飛行場の片隅には、鶉野飛行場資料館がある。

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鶉野飛行場資料館

 当日は閉まっていて、見学することは出来なかった。

 鶉野飛行場は、川西航空機姫路製作所が、製造した戦闘機を試験する際にも使用された。

 川西航空機は、ここで紫電紫電改といった戦闘機を製作した。紫電改は、戦争末期に登場した、日本が開発したレシプロ戦闘機の中では最強の機体である。

 軽量だったが装甲が薄い零式艦上戦闘機は、戦争後半には火力のあるアメリカ機に太刀打ち出来なかった。零戦の800馬力のエンジンに比べて、2000馬力のエンジンを積む紫電改は、防弾装備を厚くして機体が重くなっても、馬力がある分十分に戦えた。

 紫電改は、零戦が歯が立たなかったP51ムスタンググラマンF6Fヘルキャットといったアメリカ機とも互角に戦えた。

 そんな紫電改が鶉野で製作されていたのだが、今鶉野飛行場では紫電改の原寸大の模型を展示していて、毎週第1、第3日曜日に公開している。

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紫電改模型の格納庫

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紫電改の原寸大模型

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 私が訪れた日は、公開日ではなかったので、格納庫のアクリル板を通して中を覗いただけだが、紫電改が意外と大きかったので驚いた。

 模型ではあるが、コクピットも本物そっくりに作っているようだ。

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 鶉野の製作所では、46機の紫電改が作られ、終戦時には13機が残存していた。戦後アメリカに運ばれた紫電改に乗ったアメリカのパイロットは、その性能に驚いたという。

 鶉野飛行場の南側には、姫路海軍航空隊の防空壕と地下指揮所が残っている。

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防空壕

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地下指揮所入り口

 飛行場のあった鶉野は、米軍に空爆され、周辺の民家も破壊されたらしい。

 防空壕の南側の、かつて姫路海軍航空隊の兵舎があった辺りは、今は神戸大学農学部附属農場となっていて、牛が放牧されている。

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 鶉野飛行場からほど近い北条鉄道網引駅には、紫電改にまつわる悲惨な事故の跡が残っている。

 北条鉄道は、兵庫県小野市の粟生駅から、加西市北条町駅を結ぶローカル線で、今はてんぷら油で走るディーゼル車が話題を呼んでいる。

 昭和20年3月31日、この北条鉄道網引駅の近くで悲惨な事故は起きた。

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網引駅の事故を伝える看板

 昭和20年3月31日、訓練飛行中の紫電改が、鶉野飛行場に着陸するため高度を下げていたところ、エンジンが突然停止して高度を急激に落とした。紫電改は、北条鉄道の線路に尾輪をひっかけ、線路を歪めてそのまま墜落した。

 そこを丁度通りかかった満員乗車の北条鉄道が転覆し、12名の乗客と紫電改搭乗員1名が命を落とした。

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列車転覆事故の説明板

 加西市が経験した交通事故としては、戦前戦後を通じて最悪であるらしい。

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列車転覆事故のあった辺り

 転覆事故のあった辺りは、当時も今も水田のままである。かつて悲惨な事故があったことを示すものは、網引駅の看板のみである。

 戦争とは人間が行う重い営為であるが、巨大な機械の動きに似ている。機械が一度動き出すと、個人の力ではなかなか止めることが出来ない。巨大な機械の動きの下敷きになって死ぬ人もたくさん出てくる。それでも戦争という機械が動き出すには、それなりの歴史の必然がある。歴史は人間が織り成すものだから、結局は戦争という機械は人間が動かしているのである。

 抽象的な物言いになってしまったが、具体的に言うと、人間が共同体の利益を守る思いを持っている以上は、戦争は必ず起こる。人類全員が自分だけが生き残ることしか考えなくなったら、戦争は無くなるだろう。

 そんなことはありえないので、戦争はなかなかなくならないのだが、戦争というこの人間の宿痾を直視し続け、戦争の中で生きて死んでいった人々がいたという事実を尊重することが、歴史を見る目には必要だと思う。

法華山一乗寺 後編 附古法華石仏

 三重塔の前から石段の上を見上げると、大悲閣と呼ばれる本堂が見える。

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本堂

 本堂は、国指定重要文化財である。現在の本堂は、創建されてから四代目で、寛永五年(1628年)に、姫路藩主本多忠政によって建立された。

 本多忠政は、姫路城西の丸を築いて、姫路城を現在の姿に完成させた人である。

 初代本堂は法道仙人が開基した白雉元年(650年)に建てられた。二代目は、建武二年(1335年)に後醍醐天皇の勅願で建立され、大講堂と呼ばれたが、大永三年(1523年)に兵火により焼失した。三代目は、赤松義裕により永禄五年(1562年)に建立されたが、元和元年(1617年)に焼失した。そして建ったのが今に残る四代目本堂である。

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本堂

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 本堂は、平成10年の台風で被害を受け、平成11年から平成20年まで半解体修理工事が行われた。

 入母屋造り、本瓦葺の堂々たる建物だ。

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本堂の背面

 本堂の内部は、広々としている。

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本堂内部

 本堂内陣は撮影禁止である。格子を通して内陣を窺うと、厨子の前に小さな銅造観音菩薩立像が立っていた。ご本尊の観音菩薩立像は秘仏で、厨子の内部に祀られている。厨子内の秘仏と、表に出ている仏像と、2躯の観音菩薩立像があるようだ。

 中央の鰐口紐に五色の布が結ばれているが、この布はご本尊と結縁されているそうだ。

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本堂の天井

 天井には、お札のようなものが数多く貼られているが、どういういわれがあるか分からない。

 本堂の横には、兵庫県指定文化財の鐘楼がある。

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鐘楼

 鐘楼も寛永五年(1628年)に本多忠政によって再建されたものである。

 本殿裏には、鎮守諸堂と呼ばれる仏法の守護者達を祀るお堂が並ぶ。

 最も古いのは、鎌倉時代に建てられた護法堂である。

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護法堂

 春日造の護法堂は、仏法の守護神毘沙門天を祀る。

 護法堂の隣には、弁天堂と妙見堂がある。

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弁天堂と妙見堂

 向かって左が弁天堂で、室町時代の建築。音楽・芸能の神である弁財天を祀る。右側の妙見堂には、妙見菩薩を祀る。これも室町時代の建築。

 護法堂、弁天堂、妙見堂の三社は、奈良時代孝謙天皇の勅願により建てられたという。

 三社の側にある行者堂は、寛文年間(1661~1673年)に仁明天皇の御願により建てられた。

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行者堂

 役行者及び前鬼後鬼の木像を祀る。法華山の護摩供の道場である。

 奥の院まで歩くと、開山堂が見えてくる。

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開山堂

 開山堂は、寛文七年(1667年)の建立である。中には、鎌倉時代の快派の仏師・賢清が彫った法道仙人木像を祀る。

 開山堂の奥には、賽の河原がある。

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賽の河原

 巨岩の下に、小石が積み上げられている。親より先に死んだ小児が、賽の河原で親の供養のために小石を積み上げ塔を作ろうとするが、鬼に崩される。そんな小児を助けるのが地蔵菩薩とされる。これは、中世日本の庶民に広まった民話で、仏教とは関係ないという説がある。

 しかし、寺院の最奥に賽の河原があるということは、そのような民間信仰一乗寺が大切にしているということを現わしているのではないか。

 一乗寺から谷を隔てて北にある笠松山には、古法華(ふるほっけ)という字名が残っている。古法華が、法華山一乗寺の旧地であるとする説がある。

 現在の古法華一帯は、古法華自然公園という名称の公園となっており、ハイキングコースやキャンプ場がある市民の憩いの場となっている。

 この古法華の地に、古法華寺という寺があり、そこに国指定重要文化財の古法華石仏が保管されている。

 古法華石仏の正式名称は、石造浮彫如来及び両脇侍像である。

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古法華石仏を保管する建物

 この石仏は、白鳳時代(7世紀後半)の作で、わが国最古級の石仏である。石仏は、石造厨子の中に祀られており、中央には如来倚像、その左右には菩薩像、三重塔が彫られている。

 残念ながら予約なしでの拝観は出来なかったが、石仏を保管する建物の前の説明板には石仏の写真が載っていた。

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古法華石仏

 写真のように、石仏の顔が削られている。なぜ削られているのかは分からないが、戦乱や飢饉で苦しんだ先人たちが、石仏の顔を削って食することで、幸せになることを願ったという説がある。

 石仏が削られているのは残念だが、石仏の足元の方や光背を見ると、なかなか細密に彫られている。

 ところで、加西市を中心として、東播磨地方は、石棺や石仏の宝庫である。東播磨の石造の文化財をこれから数多く訪れることになるだろう。

法華山一乗寺 前編

 兵庫県加西市坂本にある法華山一乗寺は、天台宗の寺院である。

 西国三十三所観音霊場の第26番札所として知られる名刹である。

 当ブログとしては、姫路城、閑谷学校に続いて、3度目の国宝建造物の訪問である。

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法華山一乗寺

 元亨二年(1322年)に書かれた「元亨釈書」には、一乗寺は白雉元年(650年)に法道仙人によって開基されたとある。

 インドから紫雲に乗じて我が国に飛来した法道仙人は、谷は蓮華の如く峰は八葉に分かれたこの山に下り留まり、山を法華山と名付けたという。

 実際は法道仙人を慕った孝徳天皇の勅願で法道仙人が開基したのだろう。

 ご本尊の聖観世音菩薩像は、白鳳時代の作であるとされている。実際の創建も白鳳時代には遡ると思われる。

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 一乗寺のある場所は、加西市姫路市加古川市の境界に近く、市街地からは離れており、静けさに包まれた霊域であると感じる。

 境内に入って右に行くと、太子堂がある。

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太子堂

 太子堂は真新しい建物であった。近年建て替えられたものであろう。しかし内部に安置されている厨子は、古びたものであった。

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太子堂内部の厨子

 厨子は昔から伝わるものであろう。

 一乗寺には、国宝「聖徳太子像及び天台高僧像」という10幅の絵画が伝わってきた。聖徳太子とインド、中国、日本の天台の高僧達を描いた画である。平安時代の作と言われている。

 これらの国宝絵画は、現在は東京国立博物館奈良国立博物館大阪市立美術館に寄託されていて、一乗寺では展示していない。

 この厨子内に、かつては聖徳太子像が掛けられていたのではないか。

 太子堂の近くには、国指定重要文化財の石造五輪塔がある。

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石造五輪塔

 元亨元年(1321年)十月十七日、権律師阿弁の銘がある。梵字がしっかり彫られた堂々たる五輪塔だ。

 急傾斜の石段を登ると、左手に常行堂が見えてくる。

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常行堂

 常行堂は、阿弥陀堂とも呼ばれている。聖武天皇の勅願で建立された。たびたびの火災で焼失したが、明治初年に再建された。

 国指定重要文化財である絹本着色阿弥陀如来像を祀っているものと思われる。

 常行堂からは、国宝の三重塔を見上げることが出来る。

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常行堂から見上げる三重塔

 この三重塔は、私が史跡巡りで訪れた四つ目の三重塔である。そして初の国宝の三重塔である。

 三重塔は、瓦の銘から、承安元年(1171年)に建立された塔であることが分かっている。日本国内でも十指に入る古い塔である。

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三重塔

 この三重塔は、上の層ほど屋根が小さくなり、安定した優美な姿をしている。

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 三重塔は、寺域の丁度中腹にあり、本堂に至る階段から見下ろすことが出来る。様々な高さから鑑賞できるのが、この塔のいいところだ。

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 どの高さから見ても、バランスの取れた優美な姿である。屋根の上の相輪と、下に行くほど広がる塔全体の形が調和しているのだろう。

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 平安末期に出来たこの塔が、源平合戦南北朝の争乱、戦国時代という乱世を、燃えずに乗り越えて来たのは奇跡的だ。

 三重塔に安置されている本尊は五智如来だが、その霊験のおかげであろうか。

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本堂から見下ろす三重塔

 いずれにしろ、兵庫県が誇る国宝建築物の一つである。

 三重塔の前には、宝暦十二年(1762年)に建立された法輪堂(経堂)が建っている。

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法輪堂

 内部には、黄檗一切経が収められた輪蔵がある。輪蔵の前には、輪蔵の創始者善慧大師とその二子の像が安置されている。

 一乗寺の本堂は、大永三年(1523年)の兵火で一度焼けている。この一乗寺も戦場になったことがあるのだ。

 古い木造建築物は、それだけで威厳あるオーラを放っている。戦火を乗り越えて来たのなら猶更である。

 森厳としたこの霊域で、優美な国宝の塔は、凛とした姿で立ち続けている。