姫路城 その4

 これから姫路城の大天守内部を見ていくが、図がないと分かりづらいと思う。

 後日、兵庫県立歴史博物館で写した姫路城断面図と断面模型の写真を載せる。

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姫路城断面図

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姫路城断面模型

 これを見ても分かるように、姫路城は外から見ると5階建てに見えるが、実は石垣内に地階が1階あり、石垣より上は6階まである。

 外から見て4階に見える部分に、実は4階と5階が入っている。

 姫路城大天守の美しさの秘訣は、千鳥破風と唐破風がバランスよく配置されているところにあるだろう。

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姫路城大天守

 この配置の妙は、音楽的と言っていいと思う。

 さて、大天守地階に入ると、中は何の装飾もない木肌むきだしの空間である。

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西大柱

 中央に見える巨大な柱は、西大柱である。大天守の断面模型を見て分かるように、姫路城大天守には、東大柱と西大柱という2本の巨大な柱が、地階床から6階床までを貫通しており、建物の中心を支えている。

 その内、東大柱は、姫路城建築当時の柱を補強しながら使っているが、西大柱は、昭和の大修理で新材に取り換えられた。

 昭和の大修理(昭和31~39年)は、姫路城天守を一度解体して組み直すという大工事であった。

 この際に、西大柱が腐朽していることが分かり、新材に取り換えられることになった。しかし、全長24.7メートルの木材を調達することは至難の業で、ようやく岐阜県恵那郡加子母村国有林から、1本の長大な檜を調達することになった。

 だがこの檜の搬出作業中に折損事故が起きてしまう。そのため、西大柱の3階から上は、兵庫県神崎郡市川町の笠形神社から伐り出した檜の柱を継ぎ足している。

 この昭和の大修理のことは、かつてNHKの「プロジェクトX」で放送された。

 大天守地階には、使用意図は分かっていないが、流しなどがある。籠城時に食糧を作ることを想定していたのではないか。

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地階の流し

 1階に上がる。大天守1階には、全部で4つの出入り口がある。いずれも厳重な扉で閉じられている。

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ニの渡櫓との通用口

 ニの渡櫓との間の通用口は、鉄製の二重扉で、閂を内側からかけたら、入れなくなる。

 また、1階には、武具掛けがある。当時は槍を掛けていたのだろう。

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武具掛け

 2階に上がる。大天守の縦の柱と横の柱が交差する部分に黒色の釘隠しが見える。六葉釘隠しと呼ばれるものである。

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2階の六葉釘隠し

 又、武具庫と呼ばれる部屋がある。

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武具庫

 こうして見ると、大天守には居住スペースは見当たらない。大天守は、あくまで籠城戦で兵士たちが立て籠もって戦うために造られたもののようだ。

 2階の東西には、入母屋破風があるが、破風の内側には、「破風の間」と呼ばれる空間がある。

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破風の間

 破風下の格子窓から風が入るので、外国人観光客達が涼んでいた。

 3階に上がると、ようやく剥き出しの東大柱を目にすることができた。

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東大柱

 西大柱が角柱であるのに対し、東大柱は円柱である。何かいわれがあるのだろうか。

 また3階の四隅には、武者隠しと呼ばれる、伏兵を配置する狭い部屋がある。

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武者隠し

 4階に上がる。大天守の東西には、大入母屋屋根と呼ばれる大きな入母屋(千鳥)破風があるが、そのため4階の窓の位置が高くなっている。窓を使用できるように、石打棚を設けている。戦闘時は、この窓から眼下の敵を攻撃する予定だった。

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石打棚

 5階に上がると、東西の大柱の先端を見ることが出来る。両柱とも先端部を鉄板で補強している。昭和の大修理の際の補強である。

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東大柱と西大柱の先端

 東大柱は、昭和の大修理の際に、中心線から東南に37cm傾いていることが分かったそうである。それまでは、柱を補強して、何とか使い続けていた。

 6階は、大天守の最上階である。ここには、姫山の地主神である、刑部(長壁)大神(おさかべおおかみ)を祀っている。

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刑部(長壁)神社

 姫山には、姫路城築城前から、元々刑部神社が祀られていた。大天守を建てた池田輝政は、姫路城「との三門」に刑部神社を建てて手厚く祀った。寛延元年(1748年)、城主松平明矩の時に、社名を長壁神社に改めた。長壁神社は、歴代藩主の崇敬が厚かったが、明治12年播磨国総社に移された。その後勧請され、天守最上階に祀られるようになった。長壁神社は、火災や災害に霊験あらたかな神とされる。

 姫路城は、昭和20年7月3日の姫路空襲で、姫路市街の40%が焼失した時も、奇跡的に生き残った。

 昭和20年、日本中が米軍の空襲に曝された際、白く目立つ姫路城を守るため、城に偽装網をかけて黒くみせかけた。

 7月3日の姫路空襲では、米軍のB29は、姫路城にほとんど焼夷弾を落とさなかった。B29の搭乗員にインタビューした神戸新聞の記事によると、当時のB29に搭載されたレーダーは、機下にあるものが地表か水面かの判別しかできなかったという。レーダーが姫路城の濠を水面と捉えたので、搭乗員は姫路城周辺を沼などの水面と判断し、焼夷弾を落とさなかったという。

 当時姫路城は世界的には無名だったので、米軍が敢えて城を避けて爆撃したとは考えにくい。実際に国宝名古屋城天守は名古屋空襲で焼失してしまった。

 それでも、姫路城大天守6階に焼夷弾が1発だけ直撃した記録は残っている。不発弾だったため、すぐさま処理班が素手でバケツリレーして大天守から運び出し、城外で爆破したそうだ。これが不発弾でなければ、天守は燃え落ちていただろう。

 夜を徹した空襲から明けて、外に出た姫路市民は、一面焼け野原となった姫路市街の中心に、奇跡のようにお城だけが残っているのを見て、感激したという。

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天守最上階から南を望む。

 これが長壁大神の霊験であるかは分からないが、姫路城が幸運な城であることは間違いないだろう。 

 姫路城大天守最上階から四囲を見渡すと、発展した現在の姫路市街が見える。ここに祀られる長壁神社は、姫路城築城前から現在まで、姫山周辺の移り変わりを見続けてきたことだろう。

 私には、長壁大神が、今住処となっている大天守が気に入ったから、しばらくここに居らせてくれと言っているように感じる。この神様の我が儘につきあって、お城を美しく維持し続けるのも悪くないと思う。

 

姫路城 その3

 西の丸を見学し終わると、いよいよ本丸に向かうことになる。

 西の丸から「はの門」方向に近づくと、西小天守と乾小天守を前に控えた大天守が見えてくる。

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西から見た天守

 姫路城の天守は、五層七階の大天守と、その周囲に控える東小天守、乾小天守、西小天守の3つの小天守で構成されている。

 この小天守の存在が、大天守の存在を引き立てている。 

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はの門

 はの門を潜り、城の中枢に入っていく。しかし天守にはなかなか辿り着けない。入り組んだ迷路のような道を歩くことになる。

 はの門を潜ると目の前に現れるのは、にの門の櫓である。

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にの門の櫓

 にの門の櫓には、十字紋のついた鬼瓦がある。

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十字紋瓦のある櫓

 私のRX100の望遠機能では、これが限界だが、中央の鬼瓦を拡大すれば、十字形が見えてくる。キリシタン大名となった黒田官兵衛が城主の時の瓦ではないかと言われているが、黒田官兵衛キリシタンになった時には、官兵衛は既に姫路城から退去している。なぜここに十字紋瓦があるのか謎とされている。

 更に進むと、「扇の勾配」と呼ばれる石垣が見えてくる。石垣の勾配が、開いた扇の曲線に似ていることからついたニックネームである。

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扇の勾配

 上に行くほど反り返る勾配は、敵に石垣をよじ登らせないための工夫である。

 にの門は、天井が低く、長槍を持った兵が入りにくいようにしてある。

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にの門

 また門扉には鉄板を張っている。心憎いほど手の込んだ防御態勢だ。

 にの門を潜ると、ようやく間近に天守が見えてくる。

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手前が乾小天守

 上の写真手前が乾小天守である。乾の方角、つまり天守の北西に来たわけだ。

 次なる門は、ほの門である。

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ほの門

 ほの門は、埋門(うずみもん)と呼ばれる門である。埋門には、城の土塀を切り抜いたものと、石垣そのものを切り抜いたものの2種類あるが、ほの門は前者になる。なぜこんな小さな門を備え付けているかというと、これも防備のためである。

 ほの門を潜ると、すぐに上り階段になる。門の扉を閉めて、扉の内側の階段の上を石で埋めれば、文字通り門が埋まって開かなくなる。全て戦闘のために造られている。

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油壁

 ほの門を通ると、すぐ右に油壁が聳える。

 ほとんどの土塀が白い漆喰で塗り固められた姫路城の中で、地肌が露出した油壁は異色の存在だ。この壁は、秀吉時代の姫路城の遺構とされている。

 粘土に豆砂利を混ぜて、米のとぎ汁で固めたものとされているが、なぜここだけ漆喰塗籠ではないのか、正確なことは分からない。

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ロの渡櫓

 ほの門から入ると、姫路城天守の北側になるロの渡櫓が見える、姫路城を北側から見ることは少ないので、なかなか珍しい光景だ。

 大天守と3つの小天守を結ぶ4つの渡櫓は全て国宝に指定されている。

 写真の油壁の奥に見えるのが、水の一門である。ここから天守に辿り着くには、水の一門から五門まで、五つの門を突破しなければならない。

 どれも狭い門で、ここを通過するには、進撃速度を下げるしかない。

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水の二門

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水の三門

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水の四門

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水の五門

 私が登城した日は、暑くて暑くて、城に登るだけでも大変だったが、この城を攻撃する場合、天守や櫓から雨あられのように降り注ぐ石や矢や弾丸をくらいながら、これら狭い門を突破していかなければならない。

 そして、水の五門を抜けると、狭い空間に入ることになり、鉄砲狭間がこちらを狙っていることに気づく。

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水の五門を入った場所

 姫路城は、優美なその姿と裏腹に、実態は籠城戦に徹底して備えた、「戦う城」であった。姫路城は、歴史上ほとんど実戦を経験しなかったので、「不戦の城」とも呼ばれるが、城としての戦闘設備が整っているからこそ、単なる文化財ではない城郭建築としての価値があるのだろう。

 猛暑日に訪れたので、城の設備をじっくり見る余裕がなかったが、過ごしやすい季節にもう一度来て、隅から隅まで見てみたいものだと思った。

 水の五門を潜ると、丁度大天守と西小天守の間に入ったことになる。ここから大天守に上がる石の階段がある。

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天守に上がる石段

 この階段は、約400年前に池田輝政が大天守を築城してから、ずっと使われ続けているものである。

 昔武士が草鞋を履いて登った石段を、現代の観光客がスニーカーや革靴で踏んでいる。姫路城は、遥かな時間を旅して現在まで生き延びてきたが、この石段は、時間の経過をよく知っているだろう。

 姫路城は戦うために出来た城である。しかし、この城の籠城戦のための設備が、ついに使われずに現代に残ったのは、城にとっても人類にとっても、幸せなことであった。

 

姫路城 その2

 菱の門を潜ると、すぐ目の前に三国堀という石垣で囲まれた溜池がある。

 ここから見上げる天守もなかなかいい。

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三国堀ごしの天守

 私もここで、外国人観光客からカメラのシャッターを押してくれと頼まれた。お安い御用である。

 私は、すぐに天守には向かわずに、西の丸を先に見ることにした。

 西の丸は、姫路城の西側に建設された郭である。

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西の丸見取図

 この図で言うと、ワの櫓から化粧櫓までを渡櫓がつないでおり、中を歩くことが出来る。

 大天守西側の窓から見下ろすと、下の写真のようになる。

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西の丸の全貌

 西の丸内には、江戸時代には、西の丸御殿という御屋敷が建っていた。

 西の丸の向こう側に、こんもり木が茂った丘があるが、あれが景福寺山である。

 幕末に姫路藩を攻撃するために、備前藩が大砲を据えて姫路城を砲撃した山である。こうして見ると、指呼の間にある。あんなところから長射程の大砲で撃たれたらたまったものではない。姫路城は、固い防御力を誇る城だが、それも所詮は戦国時代の弓矢や火縄銃の攻撃を想定して造られた防備である。近代的な大砲で攻撃されるところまで想定していない。

 とは言え、備前藩池田家は、元々姫路城を造った池田輝政の末裔である。姫路藩側も、戦闘開始前に備前藩に恭順の意を伝えていた。備前藩の砲撃も、威嚇射撃程度であったらしい。本格的な戦闘にはならず、姫路城は早々に無血開城した。

 菱の門を過ぎて、西の丸に向かう坂を上る。こうして見ると、西の丸はやはり岡の上にある。

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西の丸への坂

 ワの櫓から化粧櫓までの渡櫓を別名百間廊下という。まずは入り口のワの櫓に向かう。

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ワの櫓

 ここから靴を脱いで建物内に入る。百間廊下は、姫路城からの発掘物や各種資料が展示してあって、なかなか面白い。

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百間廊下

 私は、史跡巡りを始めてから、すっかり赤松氏のファンになってしまったが、赤松氏の家紋である三巴紋の瓦も姫路城から発掘されている。

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三巴紋の瓦

 この地に城を最初に築いたのが、播州に土着した赤松氏であるのが、少し嬉しい。

 百間廊下を進むと、西の丸の防御機構を目にすることが出来る。

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石落とし

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石落としの開口部

 例えば、石落としは、西の丸の石垣をよじ登ってくる敵兵に石を落とすための仕掛けである。普段は鍵が閉められている開閉部を開けて、そこから下に石を落とす仕組みである。

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窓の格子

 また、何気ない窓の格子も、木芯に鉄板を張って、その上を漆喰で塗り固めている。火縄銃の弾ぐらいなら弾き返すだろう。

 姫路城は、白い漆喰で塗られて、白亜の優美な姿で知られるが、漆喰はあくまで防火能力を高めるために塗られたものである。防御能力を高めるための仕掛けが、ことごとく城の美しさに貢献しているのが、城郭建築史上の奇跡であると思える。

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ルの櫓

 ルの櫓を過ぎてから、長局という、廊下沿いに女中部屋が連なるエリアに入る。西の丸御殿で働いた女中達の部屋である。

 さて、姫路城と言えば、千姫が10年間を過ごした場所でもある。家康の孫であった千姫は、豊臣秀頼に嫁ぐが、大坂夏の陣で敗北した夫秀頼は自決する。

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千姫を巡る家系

 千姫は、大坂城落城の前日に、燃えさかる大坂城の炎の中から救出される。千姫は、家康に秀頼の助命を嘆願するが、受け入れられなかった。

 千姫は、大坂夏の陣の翌年である元和二年(1616年)に、本多忠政の嫡男・本多忠刻(ただとき)に嫁ぐ。元和三年(1617年)、忠政が姫路藩主になったのに伴い、忠刻、千姫も姫路城に移る。

 忠刻は、美青年だったとされる。美貌の千姫と好一対である。千姫は忠刻との間に幸千代と勝姫の1男1女を儲ける。

 元和七年(1621年)、幸千代は三歳で亡くなってしまう。長男の死は、秀頼の祟りと言われ、それから千姫は信仰に目覚めることになる。

 千姫は、天神への熱い信仰を持っていたが、城の西にある男山に天満宮を建てさせ、城の守護神であった天神木像を男山天満宮に祀らせた。

 千姫は、長局の窓から、男山天満宮に向かって、男子の出生と本多家の繁栄を祈ったそうだ。

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長局の窓から望む男山

 しかし、千姫の願いも空しく、寛永三年(1626年)、夫の忠刻が31歳で亡くなってしまう。

 千姫は、失意の中姫路を離れ、出家して天樹院と号し、70歳で亡くなるまで、忠刻と幸千代の冥福を祈り続けたという。

 百間廊下の終点は、化粧櫓である。千姫が男山天満宮を遥拝する際に、ここを休憩所にしたことから、化粧櫓という名称になったらしい。

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化粧櫓

 化粧櫓は、天井は杉柾張り、壁面は全て黒い木枠に紙を貼ったものをはめ、隅々まで技巧を凝らした建築となっている。

 今は、化粧櫓の座敷には、千姫を象った人形が置かれ、往時を偲ぶよすがになっている。

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化粧櫓の座敷

 千姫は、秀頼と忠刻という2人の夫と長男に先立たれた不幸な女性であるが、千姫が長局から男山天満宮に祈念した願いは、別の形で実現されたのではないか。それは千姫の住まいであった姫路城の永生ということである。

 千姫の人生にとって、夫や息子に比べれば、豪華な城や御殿は何ほどのこともなかったろう。

 だが化粧櫓から再び美しい大天守を見上げると、この城が生き延びたことに、千姫の祈りが少なからず影響しているのではないかと思われてならなかった。

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化粧櫓から眺める天守

 

姫路城 その1

 世界文化遺産・国宝姫路城。

 天下の名城は、今や人類全体の財産となっている。日本人ばかりでなく、外国人観光客も多数観光に訪れている。

 姫路城は、姫山と鷺山と呼ばれる二連の丘の上に建てられている。姫山は、今天守閣が建っているところであり、鷺山は、西の丸が建っている場所である。

 最初に姫山に城を築いたのは、赤松円心である。元弘三年(1333年)、鎌倉幕府打倒のため挙兵した円心は、姫山に砦を築いた。

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イーグレ姫路から展望した姫路城

 その後、赤松氏の支族である小寺氏の城となったが、戦国時代には小寺氏の家臣であった黒田氏が城主となる。

 秀吉が播磨を平定した際に、黒田官兵衛が秀吉に姫路城を対毛利戦の拠点にすることを勧め、秀吉が姫路城主となる。

 秀吉は、天正九年(1581年)、姫山に三重天守を築く。姫路城に天守が出来たのは、この時が初めてである。

 今の五層七階の天守閣を築いたのは、初代姫路藩主・池田輝政である。

 池田輝政は、慶長六年(1601年)に姫路城の大改築を開始し、慶長十四年(1609年)に現在の天守閣が完成した。

 姫路城を現在の形に完成させたのは、池田氏の次に姫路藩主となった、本多忠政である。

 上の写真の、天守閣の左の方に伸びている郭(くるわ)を西の丸と呼ぶが、本多忠政は、元和四年(1618年)に鷺山の上に西の丸を築いた。

 これで、現在の姫路城の形が完成した。そうすると、昨年は姫路城完成から400周年だったことになる。

 姫路城は、その白く優美な姿を白鷺に例えられており、別名白鷺城と呼ばれている。姫路城で驚くべきところは、360度どこから観ても美しいということである。どの方角から観ても絵になるものが、日本国内に他に何があるか考えてみたが、恥ずかしながら霊峰・富士山くらいしか思い浮かばなかった。

 地元の贔屓目かも知れないが、この建築美はただ事ではない。私は、中でも、姫路城の南東にある商業施設イーグレ姫路の屋上から眺める姫路城が一番好きである。それが上の写真なのだが、背後に見える播磨山地を借景として利用しているのではないかと思ってしまうほど、背景の山とも合っている。

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天守

 姫路城は、平成21年から27年まで、「平成の大修理」を行っていたが、今でも細々とした修復事業は続いている。私が訪れた時は、上の写真の天守左下にある「りの一渡櫓」が修理中であった。工事用の覆いがかけられているが、これがなければ、もっと美しかったろう。

 さて、「姫路城」とよく呼ばれるが、その範囲はどこまでを指すのだろう。文部科学省は、姫路城跡を特別史跡に指定しているが、その範囲はかつて中曲輪(なかくるわ)と呼ばれたエリアである。

 現在姫路城の南側を国道2号線が通っているが、姫路城南側の国道2号線は、中曲輪の濠を埋め立てて出来たものである。

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中曲輪の範囲

 この写真の青色の線の内側の、濠と国道2号線に囲まれたエリアがかつての中曲輪である。中曲輪内は、武家が住む場所だった。

 姫路市民なら知っているが、このエリア内の住所は、全て「姫路市本町68番地」である。日本一広い番地とされる。 

 今一般に姫路城と呼ばれている範囲は、かつて内曲輪と呼ばれたエリアになる。内曲輪は、大きく本丸(備前丸)、二の丸、三の丸、西の丸に分かれる。このうち、本丸、二の丸、西の丸が有料エリアである。大人1人入場料1000円だ。平成の大修理後大幅に値上がりしたが、これほどの文化遺産を見学できると思えば、安いものである。

 姫路城に入るには、桜門橋を渡り、大手門を潜る。

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桜門橋

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大手門

 実は、この桜門橋と大手門は、近代になって建てられたものである。大手門は昭和13年、桜門橋は平成19年の建築である。

 明治維新後、姫路城は陸軍の駐屯地・演習地となった。その際、当時の城門や三の丸の櫓、土塀は撤去されてしまった。

 今ある大手門は、建築当時の本来の城門と位置も形も全く異なる。江戸時代には、三の丸に入るのに3つの城門を通らねばならなかった。

 大手門を潜ると、三の丸に入る。三の丸までは、無料で入ることが出来る。姫路城は桜の名所でもあるが、花見のシーズンには、三の丸は花見客で一杯になる。

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三の丸から見上げる天守と西の丸

 三の丸は、広大な広場になっているが、かつてはここに藩主等の御屋敷が建っていた。今は市民や観光客の憩いの場となっている。

 菱の門から、二の丸に入ることになるが、天守閣を眺めるだけなら、三の丸からだけでも十分楽しめる。

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菱の門手前から見上げる天守

 姫路城の建物のうち、8つが国宝に、74が国指定重要文化財に指定されている。姫路城を見学するには、お城の案内図があった方がいいだろう。

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姫路城の文化財

 説明板のうち、赤色の数字が国宝であり、それ以外が重要文化財である。建物の位置と名称を確認しながら観て行ったら、より楽しめるだろう。見学に丸一日費やすことになるだろうが。基本的に、以降写真に写る全ての建物は、国宝か重要文化財である。

 菱の門手前の入場口でチケットを買って、菱の門から二の丸に入る。

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菱の門

 菱の門の東側に連なる石垣は、姫山の地形に沿って美しくカーブしている。

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菱の門東方石垣

 菱の門は、豪壮な安土桃山様式の、お城の玄関に相応しい格式高い門である。

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菱の門

 藩主たちは、普段は三の丸の御屋敷に住んでいた。この門から内側が、普段の執務が行われた武士たちの職場であり、有事の要塞である。

 戊辰戦争や姫路空襲といった試練を乗り越えて、この名城が生き残ってきたのは、それだけで一つの物語になるが、以後のシリーズでゆっくり書いていきたいと思う。






 

伊和神社

 兵庫県宍粟市一宮町須行名にある伊和神社は、播磨国一宮である。一宮は通常、その国で最も格の高い神社を指す。

 伊和神社は、鬱蒼と茂った杉や檜の林の中にある。

 伊和神社のすぐ東側を国道29号線が走るが、境内の鎮守の森に入ってしまえば、国道の喧騒と打って変わって、静寂な雰囲気が周囲を包み込む。

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伊和神社参道

 ここに祀られる大己貴神(おおなむちのかみ)は、別名大名持御魂神、大国主神と言って、出雲大社に祀られている神と同一であるが、この神社の祭神にはもう一つの名があって、伊和大神と言う。

 大国主神は、「古事記」にも出てくる神様で、因幡の白兎の説話や、国譲りの伝説で有名である。

 神話では、大国主神葦原中国(あしはらなかつくに、日本列島のこと)を開拓して国造りを行った後、天孫(今の皇室につながる存在と思われる)系の神々から葦原中国を譲ることを迫られたため、国を譲る代わりに黄泉の国(あの世)の支配者となることを要求し、日本一大きな社殿を持つ神社に祀られることになった。それが出雲大社の発祥である。

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伊和神社参道

 今でも毎年神無月(10月)には、日本中の神々が出雲大社に集合すると言われている。皇室が君臨する以前の日本の支配者だった大国主神は、我が国の神霊の世界の統率者として、今も日本文化の中に生きている。

 伊和神社に祀られる伊和大神は、「古事記」「日本書紀」には出てこない。「播磨国風土記」の中に記載がある神である。

 「古事記」「日本書紀」には、成立時点の宮廷の政治的意向が反映されていると言われるが、同時期に成立した「風土記」は、各地方で編纂されたものなので、中央の政治的意向の介入は少なく、地元で語り継がれた伝説がそのまま収録されているものと思われる。

 朝廷が「風土記」編纂が命じたのが、和銅六年(713年)であるから、伊和大神の伝説は、まだ地元で生き生きと語り継がれていたのではないか。

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北向きの社殿

 「播磨国風土記」の中では、伊和大神は、播磨国の開拓をして、地元に農業や医療を普及させたとされる。 

 そして、この伊和の地に来て、「我が事をわ(終わった)」と言ったので、この地を伊和(いわ)と呼ぶようになったという。

 伊和大神は、出雲から来た神と言われている。恐らく、出雲の勢力が、播磨まで進出してきて、この地を開発したのだろう。

 通常の神社は、大体社殿が南向きに建てられているが、伊和神社の社殿は北向きに建てられている。伊和大神の故郷の出雲の方へ向いているのだろうか。

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伊和神社幣殿

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幣殿の鶴の像

 伊和神社の創建は、第13代成務天皇のころと伝えられる。成務天皇は、応神天皇の祖父であり、実在したとすれば、西暦350年ころの在位だろう。

 伊和神社の近くにある前方後円墳伊和中山1号墳は、成務天皇の時代に近い4世紀後半の築造とされている。前方後円墳は大和政権の支配の証なので、そのころには、伊和の地は大和政権の勢力下に入っていたと思われる。

 4世紀半ばにこの辺りを制圧した大和政権が、伊和大神に象徴される旧の支配者を祀ったのが、伊和神社の始まりではなかったか。

 出雲大社もそうだが、古くから皇室は、皇室に敵対した勢力や、皇室に祟りをなす怨霊を神として祀り、元々の敵をついには皇室の守護神に変えて日本の安穏を維持するということを行ってきた。伊和大神もそうして祀られた神の一柱ではないかと思えてならない。これは私の空想だが。

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本殿

 伊和神社には、創建にまつわる伝説が残されている。

 伊和恒郷という地元の豪族が、夢で伊和大神から「我をこの地に祀れ」との託宣を受け、驚いて目を覚ますと、一夜にして伊和の地に杉や檜の林が出来ており、その上を鶴が飛んでいた。石の上で鶴が2羽北向きに寝ていたので、北向きに社殿を造ったとされている。

 本殿南側には、その時に鶴が寝ていた「鶴石」が残っている。

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鶴石

 伊和神社は、6世紀の欽明天皇の時代の創建とする説もある。伊和恒郷という名前は、とてもではないが成務天皇の時代の名前と思われないので、こちらの方が実際の創建の時代に近いのかもしれない。

 伊和神社は、平安時代の「延喜式」で名神大社とされ、大日本帝国時代の社格制度では国幣中社とされた。古くから尊崇されてきた神社である。

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御神木

 伊和神社の社殿は、江戸時代後期に建て直されたものなので、建物自体はそう古くないが、この神社で印象的なのは、伝説によれば一夜で出現したとされる、神社を包む杜である。

 まさに「森厳」という言葉がふさわしい、森と神域が一体化した厳かさを感じる。

 境内北側には、由来は分からないが、巨石が多数存在する。

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境内の巨石群

 縄文時代から、日本には巨木や巨石に対する信仰があったと言われているが、神道の元々の姿も、巨木や巨石や秀麗な山や滝などに対する、自然信仰であったと思われる。

 伊和神社には、古くからの日本の信仰の形が残っているように思われた。

 

波賀城蹟

 兵庫県宍粟市波賀町は、町の中心を国道29号線が通っている。国道29号線は、姫路市から鳥取市までをつなぐ国道である。かつての因幡街道も、ほぼ同じ場所を通っていたことだろう。

 この国道29号線を見下ろす要害の地に、波賀城蹟がある。標高約450メートルの城山の山上に、公園が整備され、復元された櫓が建っている。

 平成元年に竹下内閣が行った「ふるさと創生事業」で、全国の地方自治体に交付された1億円を使って、当時の宍粟郡波賀町が復元した櫓である。

 まずは城山の麓にある「波賀歴史伝承の家」を訪れた。波賀歴史伝承の家は、築約300年の古民家を移築したものである。

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波賀歴史伝承の家

 猛暑日に訪れたが、この時代の民家は障子を開け放すと、吹き曝しとなって風が通るので、過ごしやすかった。

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 波賀歴史伝承の家は、無人であって、入場も無料である。中には、昔の農家が使った古民具などが展示してあった。

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 しかし私の印象に残ったのは、ただただ風通しが良くて心地よいということだった。当時の日本家屋は、軒庇が長くて、家の周辺を長い陰が覆うようになっている。そして障子を開ければ、風が屋内を通り抜けることになる。

 逆に冬は相当寒いだろうが、日本の民家は、冬よりも暑い夏をいかに過ごすかということに工夫を凝らしているように思う。

 波賀城がある城山には、車で山頂近くまで上がることが出来る。山頂近くに大きな駐車場がある。

 駐車場から櫓まで歩く間、ところどころに石垣の残骸と思われる石がごろごろ転がっている。

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石垣の跡

 ここがかつて城であったことを示すものだ。

 ところで波賀城の歴史については、あまりよく分かっていない。波賀町は昔伯可荘と呼ばれ、石清水八幡宮社領であったらしい。伯可荘の有力者芳賀七郎という伝説上の人物が、最初に城を築いたとされる。

 鎌倉時代に、武蔵国秩父郡から移ってきた御家人中村氏が波賀の地頭となり、以後中村氏が、初代光時から戦国時代末期の吉宗まで、20代に渡りこの地を領した。

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芳賀城蹟入り口

 波賀城蹟の入り口には冠木門が建っている。すぐ脇に管理事務所があるが無人である。入場は無料である。

 しばらく歩くと、復元された櫓が見えてくる。

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復元した櫓

 この櫓、完成したのは平成7年である。新しい建物だが、戦国時代の櫓はこんな感じではなかったかと思わせる素朴で古めかしいものであった。

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波賀城から見下ろす景色

 下を見下ろすと、ここが因幡街道を扼す要衝であることが実感できる。この城ある限り、鳥取には抜けられまい。波賀城落城の記録は残っていないが、秀吉が鳥取城を攻略する前には、波賀城は陥落していたものと思われる。

 屋根は杮(こけら)葺きという、薄い板を何枚も重ねたものである。

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 櫓は、波賀城学習資料館として、内部を公開している。内部は無人である。

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櫓内部

 内部には、波賀城の年表が壁に貼られている。ガラスケースの中の展示品も、古文書などではなく、平成になって地元の人が波賀城や中村氏の歴史について書いた文書であった。

 内部はまだ木の香りがして清々しかった。よく見ると、釘を使っていない木造建築物である。大工が腕を振るって作ったのではないかと思われる。

 波賀城の石垣も平成に入って復元されたものである。平べったい石を積み重ねた、天正年間より前の様式が復元されている。

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復元された石垣

 波賀城主中村氏は、中世は赤松氏に臣従していたものと思われる。播磨が秀吉に平定されてからは、中村氏は歴史の表舞台から姿を消した。

 しかし、実際に建物を復元すると、史料に乏しい波賀城も、具体的な物として心に刻まれる。

 竹下内閣の「ふるさと創生事業」では、1億円の使い道は各自治体のアイデアに任せられた。中には疑問を感じる使い方をした自治体もあった。

 波賀城を復元した波賀町という自治体は、平成17年に宍粟市に合併されて無くなってしまったが、なかなか良いものを復元したと思う。この波賀城蹟は長い間残るのではないかと思われる。

 





 

 



 

家原遺跡公園 附河原田農村芝居堂

 兵庫県宍粟市一宮町三方町の家原(えばら)遺跡は、縄文時代から中世まで存在した集落の遺跡である。

 今では遺跡の発掘も終わり、家原遺跡公園として整備され、古代から中世の建物が復元されている。

 家原遺跡からは、縄文時代の竪穴住居の遺跡が見つかっている。今から9000~6000年前の縄文時代早期には、ここに人が住み始めていたそうだ。

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縄文時代の竪穴住居

 復元された縄文時代の竪穴住居は、隅の丸まった方形の住居である。床の真ん中に、石で囲んだ炉がある。復元された建物は、縄文時代中期後半(約4000年前)のものらしい。そんな昔から、入母屋造りの建物があったことに驚く。炉で木材を炊いて出た煙を出すために必要な造りだったのではないか。

 隣には、弥生時代の竪穴住居が復元されている。こちらは円形の入母屋造りである。

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弥生時代の竪穴住居

 私が遺跡公園を訪問した日は、猛暑日だったが、窓もなく風通しのない筈の竪穴住居の中に入ると、ひんやりして快適であった。下手に冷房を効かせた現代の住居よりも涼しいような気がする。

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弥生時代の竪穴住居内部

 おそらく湿気を萱が吸収するからだろう。

 次に古墳時代の建物を見る。定番の高床式倉庫がある。柱にネズミ返しがついている。貴重な穀物を守る仕掛けだ。

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高床倉庫のネズミ返し

 古墳時代の竪穴住居も立派な入母屋造りで、内部に竈がある。

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古墳時代の竪穴住居

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古墳時代の竈

 以前、赤穂市有年の遺跡では、建物外の竈の排煙口の写真を撮り逃したが、今回はばっちり写すことが出来た。

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竈の排煙口

 古墳時代の夕飯時には、集落の竪穴住居の排煙口から、煙が上がっていたことだろう。

 高き屋に 登りて見れば 煙立つ 民のかまどは にぎはひにけり

  これは、「新古今和歌集」に載せられた、第16代仁徳天皇の作と言われる和歌である。

 仁徳天皇は、皇居から村の様子を見て、民家の竈から煙が上がっていなかったので、民が生活に苦しんでいることに気づき、皇居が荒廃するのも構わずに、3年間徴税を停止した。

 この歌は、3年後、天皇が民家から煙が上がっているのを見て、民の暮らしが良くなったと喜んだ時に詠った歌だとされている。「日本書紀」に書かれた、聖帝と言われる仁徳天皇の有名なエピソードである。

 仁徳天皇は、西暦400年前後に在位したとされるが、古墳時代の真っただ中である。この歌を仁徳天皇が実際に詠ったかは分からないが、もしそうだとしたら、仁徳天皇が見た煙は、このような排煙口から上がっていただろう。

 さて、家原遺跡で画期的なのは、発掘された掘立柱跡などを参考にして、中世の建物が復元されていることである。

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中世の建物

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 家原遺跡のある辺りは、平安時代鎌倉時代には、三方庄と呼ばれる荘園であった。

 この復元された建物は、平安時代末期から鎌倉時代に、この地域で最も重要な建物だったものである。

 おそらく荘園の現地管理者が住んだ家ではなかったか。建物には、中門廊と呼ばれる出入口が付けられているが、当時地方の有力者達が、京の貴族が住んだ寝殿造りに憧れて、居宅に付けた設備であるらしい。

 鎌倉武士の地頭なども、こういう家に住んだのではないか。

 公園内には、さらに2棟、中世の建物が復元されている。

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中世の建物の復元

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中世の倉庫

 屋根は板葺きだが、当時は瓦葺きの屋根など、豪華過ぎて寺院などでしか使っていなかった。

 現代人がいかに豊かな暮らしをしているかが分かる。

 さて、家原遺跡公園には、宍粟市歴史資料館がある。宍粟市に合併される前の旧一宮町の町役場を再現した瀟洒な建物だ。

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宍粟市歴史資料館

 資料館に入ると、電気設備の故障で、照明と冷房が切れていた。

 一部の照明は点いていたので、暗い中、展示品の写真を撮った。

 宍粟市一宮町にある、4世紀後半に造られた前方後円墳、伊和中山1号墳からの出土品が目を引いた。

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出土した鉄剣

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玉類と銅鏡

 写真の通り、鏡、勾玉、剣という、皇位継承の印・三種の神器と同じ組み合わせが、伊和中山1号墳から出土しているのである。伊和中山1号墳は、大和政権につながる有力者の墓だったのではないか。

 この三種の神器セットは、弥生時代の遺跡である福岡市の吉武高木遺跡からも出土しているが、4世紀には全国に広まっていたのだろう。

 今年5月1日に、令和の新天皇が、宮中で行われた剣璽等承継の儀で、剣と璽(勾玉)を承継されたが、古墳時代の文化に繋がる政権が、今も日本に君臨しているということになる。

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古墳時代の鉄製鎧

 鉄剣の隣には、古墳から出土した鉄製の鎧も展示してあった。鉄器は腐食しやすいが、なかなか状態が良かった。

 家原遺跡公園から少し西に行き、河原田という集落に入る。

 河原田の八幡神社の境内に、兵庫県指定文化財である河原田農村芝居堂がある。

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河原田農村芝居堂

 向かいに鎮座する八幡神に芝居を奉納するための芝居堂である。明治36年1903年)に建てられたものである。

 この芝居堂は、輪軸を応用した廻り舞台や、滑車を利用した吊り2階、返し壁を備え、農村芝居堂としては凝った作りらしい。

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農村芝居堂内部

 昔は、村の若者たちが、ここで神様に奉納する芝居を演じたのだろう。

 史跡巡りを始めてから、播州の山間部に農村芝居小屋が沢山あることを知ったが、中国山地の神楽のように、一時播州では農村芝居が盛んだったのだろう。

 普段は農作業にいそしみ、時期が来れば収穫を感謝して地元の神様に芝居を奉納するという、昔の素朴な農村共同体の姿を懐かしく思った。