松原八幡神社

 家島から姫路港に戻り、国道250号線を東に行く。妻鹿の地域を抜け、白浜町に入る。

 山陽電鉄白浜の宮駅の南側にあるのが、松原八幡神社である。ここは、「灘のけんか祭り」と呼ばれる秋季例大祭で有名だ。

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松原八幡神社社頭

 毎年10月14日、15日に、その祭りは行われる。神社周辺の姫路市東山(旧東山村)・八家(旧八家村)・木場(旧木場村)・白浜町(旧宇佐崎村・旧中村・旧松原村)・飾磨区妻鹿(旧妻鹿村)の7か村の男たちが、自分たちの村に受け継がれる屋台を担いで、神社社頭や境内、御旅山と呼ばれる神域で練り合わせ、時には屋台同士を衝突させあう、豪壮で荒々しい祭りである。この旧7か村のことを灘地区と呼ぶ。

 過去には、屋台同士に挟まれて、練子(屋台をかつぐ男)が亡くなることもあった。

 屋台というと、播州の人間はどんなものかすぐ頭に浮かぶが、ご存じない方のために、以前訪れた姫路市書写の里美術工芸館で展示されていた屋台の写真を上げる。

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播州の屋台

 展示されている屋台は、灘地区のものではないが、播州の秋祭りで使われる屋台は概ねこのようなものである。

 祭りの時には、屋台の屋根の下に太鼓が設置され、太鼓を叩く子供が乗る。大人たちが屋台を担いで、屋台同士をぶつけあう間も、屋台に乗る子供たちは、優雅な身振りで太鼓を叩き続けるのである。

 私も、灘のけんか祭りを初めて目にしたときには、大変な衝撃を受けた。

 屋台は、地面に下ろす時に地響きがするほど重いのである。そんな屋台を、褌を締めて法被を着た数十人の屈強な男たちが担いで、掛け声をかけながら荒っぽくぶつけ合う姿は、勇壮豪華なのだが、祭りの盛んでない地域に育った私からすれば、最初は「なぜここまで熱心にするのか」と疑問に感じるほど熱気に溢れたものであった。

 youtubeなどの動画サイトでも、祭りの様子が流れているだろうから、一度ご覧になるといい。しかし、この祭りの迫力は、現地に行かなければ絶対に味わえない。

 神社社頭の広場で屋台は練り合わされるが、周囲には観客席が設置されている。

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松原八幡神社社頭の観客席

 この観客席に座るのは、主に地元の人たちである。一席座るのに数万円を支払う。この設備だけでも、祭りの本気度が伝わると思う。

 祭りは毎年10月14、15日に行われるが、この日が平日だと、地域の学校は全て休校になり(子供たちも祭りに参加する)、地域の男たちは仕事を休んで祭りに参加する。というより、地元では祭りの日は当然のように休業日である。遠くに働きに出ている男たちも、仕事を休んで地元に帰り、祭りに参加する。

 現代の一般の日本人からすると、祭りのために仕事を休むというのは、理解不能かも知れないが、播州の祭りに携わる人たちにとっては、祭りの方が普段の仕事より大事である。もし仕事に出て、祭りに参加しないと・・・大変なことになる。

 祭りの会場では、村同士の喧嘩が起ることがあるが、警備の警察官の指示に従う者などいない。村の長老格の氏子役員同士が介入し、喧嘩を収める。

 私は、祭りの期間中のこの地域には、神様が降臨しているのだと想定して、何となく理解することができた。けんか祭りでは、屋台の練り合わせが荒々しいほど、神様が喜ぶとされている。神様を喜ばせることが、普段の仕事や世俗の法律を超えているのである。

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楼門

 さて、祭りのことばかり書いたが、この神社は、天平宝字七年(763年)に、豊前宇佐八幡宮から分霊を勧請し、創建したとされる。なので祭神は、八幡神とされる品陀和気命(ほむだわけのみこと)即ち第15代応神天皇である。

 その他にも伝承があり、妻鹿村の漁人久津里の網に、「八幡大菩薩」と書かれた紫檀の霊木がかかり、その霊木を祀ったのが神社の始まりだという。こちらの伝承の方がロマンがあっていい。

 神社の楼門は、延宝七年(1679年)の造営である。

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幣殿

 幣殿、拝殿、本殿と社殿が続いているが、現社殿は享保三年(1718年)の造営である。

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本殿

 かつての寺院や神社は、寺領や社領と呼ばれる土地があって、その収穫を基に維持された。昔の大名は、石高に応じて兵力を養うことができたが、領地を持つ中世の神社や寺院も、武装した兵力を持っていた。

 戦国時代、松原八幡神社は、約3千人の兵力を有していたという。天正年間、秀吉が信長の命で播磨平定を進めていた時、松原八幡神社は、秀吉と争う三木城(現兵庫県三木市)の別所長治と、秀吉の双方から、援軍を要請された。

 しかし、古くから誼のある別所氏につくか、天下平定を進める織田方につくか、評議は決せず、結局別所につく者、秀吉につく者に二分された。

 別所氏はこれに激怒し、松原八幡神社を焼き払ってしまう。秀吉の天下となった後、秀吉は当時の松原八幡神社の態度を快く思わず、神社に転地を命ずる。

 秀吉の腹心黒田官兵衛孝高は、松原八幡神社を崇敬することが深かったので、秀吉に「松原は神社にとって由緒ある土地であるから、移転はこらえて欲しい」と懇願した。秀吉は移転することは許したが、その代わり千石の社領を60石に減らした。松原八幡神社は、江戸時代を通して、60石の社領御朱印地として維持する。

 このように、松原八幡神社にとって、黒田官兵衛孝高は恩人である。

 さて、史跡巡りをすると、現地に行って初めて知ることがある。私にとっても今回は初めて知ることがあった。

 境内に亀山雲平という人の顕彰碑があった。私が聞いたことのない人であった。

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山雲平顕彰碑

 この石碑の説明板を読むと、亀山雲平が「播磨聖人」と呼ばれた偉人であることが分かった。

 亀山雲平は、江戸時代後期に姫路に生まれ、江戸の昌平黌(しょうへいこう、江戸にあった官営の儒学の学校)で学んだあと、姫路に戻り、姫路藩の藩校好古堂の教授となった儒学者である。藩の大監察や隣交係も務めた。

 幕末に、佐幕側だった姫路藩が官軍側の備前藩に攻撃された時、備前藩と交渉し、姫路城の無血開城に導いたのが、亀山雲平だった。我々が今でも美しい姫路城を見られるのは、半ばは亀山雲平のおかげである。

 亀山は、維新後、節を通して明治新政府には仕官せず、松原八幡神社宮司となった。地元の熱望により、久敬舎(後観海講堂)という塾を開き、教育者として後半生を生きた。

 今でも松原八幡神社宮司は、亀山雲平の子孫が務めている。

 松原八幡神社にしろ、姫路城にしろ、文化財が現代に生き残った背景に、多くの人の熱意があったことが分かる。

 もうそろそろしたら、灘地区では祭りの準備が始まる。松原八幡神社の神様も、灘地区の人も、血が湧きたってそわそわし始めていることだろう。
 

 

家島

 当ブログもついに日本本土から離れ、離島に行くことになった。

 今日は、播磨灘に浮かぶ家島についての記事である。

 家島諸島には、主要な島として、家島本島、坊勢(ぼうぜ)島、男鹿(たんが)島、西島がある。私が訪れたのは、家島本島である。家島(いえしま)のことを、播州では、何故か「えじま」と呼ぶことがある。

 家島に行くには、姫路港(飾磨港)から連絡船に乗らなければならない。

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姫路ポートセンター

 姫路港にあるポートセンター前から、渡船が発着する。小豆島行きのフェリーにもここから乗ることができる。

 ポートセンター2階には、姫路みなとミュージアムがあって、姫路港の歴史を紹介している。船が来るまでの待ち時間に見学した。

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明治初期の飾磨港の模型

 中でも明治時代初期の飾磨港ジオラマが目を引いた。帆船が浮かび、瓦葺木造建築や煉瓦造の建物が並ぶ飾磨港の姿は、ノスタルジックである。ジオラマの奥には、以前紹介した恵美酒天満神社がある。背景の絵には、遠く姫路城が描かれている。姫路の城下町と港が一体となって発展したことが実感できる。

 姫路港から家島までは、大人片道千円である。車を船に乗せることはできない。スイフトスポーツは、港の有料駐車場で待ってもらうことになった。

 船に乗り、姫路港を出発すると、約30分で家島の宮港に着く。行きに乗った船は、小さい船であった。

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宮港

 離島というと、過疎地域というイメージがあると思うが、家島は違う。家島は漁業が盛んで、高い漁獲量を誇り、裕福な家が多い。一度外に出た若者も、島に戻ってくるという。

 家島には、島の住居と別に、対岸の姫路市街にマンションや車を所有している人が多い。宮港周辺も、住宅が櫛比し、人口密度が高そうだ。

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宮港周辺の町並み

 家島で私が訪れた史跡は、家島神社である。家島の北東に突き出た天神鼻という岬にある神社だ。 

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海上から望む家島神社

 天神鼻という名のとおり、ここは天神・菅原道真公を祀っている。

 家島神社の創建は、社伝によれば、神武東征に遡る。神武天皇が、九州から大和に向かう途中、家島に立ち寄ったところ、港内がたいへん静かだったので、「あたかも家の中にいるようだ」と感想を漏らしたことから、家島と呼ばれるようになったという。

 神武天皇が、天神を祀ったことが家島神社の創建である。また、神功皇后三韓征伐の時に家島に立ち寄り、家島神社に祈願したところ、全山が鳴動したという。

 道真公が、大宰府に向かう途中に、家島に上陸し、漢詩を岩に書き付けたという伝承が残っている。それ以降、天神と習合した道真公も合祀されるようになった。

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道真公が漢詩を書きつけた岩を祀る「詩ヲ書キ場」

 宮港から家島神社に向かう途中に、道真公が上陸したとされる浜があり、道真公が漢詩を書きつけたとされる岩がある。そこは「詩ヲ書キ場」として祀られている。当然、岩には何も書かれていない。

 詩ヲ書キ場からしばらく歩くと、家島神社が見えてくる。

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海に臨む家島神社

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家島神社鳥居

 家島神社鳥居の横に、万葉歌碑がある。家島は、古くから瀬戸内海航路の寄港地として知られ、多くの旅人が家島を歌に詠んできた。

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万葉歌碑

 歌碑は、「万葉集」の研究家で知られる犬養孝の揮毫である。遣新羅使が、半島で冷たくあしらわれ、失意の中日本に帰ってきた時の歌だ。

いへしまは なにこそありけれ うなばらを あがこひきつる いももあらなくに 

(家島は 名にこそありけれ 海原を 吾が恋ひ来つる 妹もあらなくに)

 家島を見ると、その名のとおり家に帰ったように落ち着く。海原を、私は家や妻を恋しく思いながら帰ってきた 。(家島には)妻はいないのに。という歌意だろう。

 家島神社の社殿は、小高い丘の上に建つ。参道の途中で、男鹿島が見えた。

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男鹿島

 男鹿島は、島の大半が砕石場となっている。ご覧のように、島が砕石のために大きく削られている。

 第15代応神天皇の時代に、飾磨の地に雌雄の鹿がいて、雄鹿がこの島に渡ったので、男鹿(たんが)島という名前になったという伝承がある。雌鹿が残った対岸の本土側には、妻鹿(めが)という地名が残っている。

 家島神社の建物自体は、そう古くない。

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家島神社拝殿

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家島神社本殿

 ごく一般的な、木造銅板葺きの社殿だ。

 建物は新しいが、家島神社は、平安時代の「延喜式」で名神大社に列せられており、古くから尊崇されていた。

 以前紹介した津田の細江(飾磨港)で潮待ちした菅原道真公が、波が静まってから家島に渡り、この神社に詣でたのだろう。

 帰りは、家島本島の中心街である真浦まで歩く。

 真浦の海の駅前から姫路に帰る船が出る。海の駅の近くに、地元で「どんがめっさん」と言う、亀そっくりの岩があった。

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どんがめっさん

 主人を待ち続けた大海亀が、そのまま石になったという伝承が残っている。どんがめっさんは、今では航海の神となっている。

 帰りは、大型船「高速いえしま」に乗って帰る。快適であった。

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高速いえしま

 島から自分が普段住んでいる本土を眺めるだけで、別世界に来たような気分になる。島には島独特の時間が流れている。

 島めぐりというのも、面白いかもしれない。

山崎城跡 長水城址

 今回は、兵庫県宍粟市の中心地である山崎町の史跡を紹介する。

 山崎の地は、江戸時代には山崎藩が支配していた。山崎藩主は、当初は徳川の血を引いた松平家や、池田家が務めていたが、いずれも転封となったり、お家が断絶したりして続かなかった。

 最終的に延宝七年(1679年)に、本多忠英が入封し、以後9代にわたり、本多家が明治時代まで山崎藩主を務めた。

 山崎藩は、1万石という小藩であった。城を持つことは出来ず、藩邸として陣屋を構えた。当時は宍澤陣屋と呼ばれていたようだが、地元では、陣屋跡を山崎城跡と呼んでいるので、ここでも山崎城跡と書く。

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山崎城紙屋門

 宍粟市山崎町鹿沢の本多公園に、山崎城跡はある。現存するのは当時の石垣と、紙屋門と呼ばれる門と、門の左右の土塀だけである。

 紙屋門は、1850年代の建築だそうだ。左右の白壁の土塀は、本多氏が入封した延宝七年より前からあったらしい。

 門を入ると、中には山崎町歴史民俗資料館が建っているが、今は公開されていない。

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山崎町歴史民俗資料館

 この建物、明治21年に警察署として建てられたもので、その後法務局庁舎として使われていたものらしい。

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山崎城(宍澤陣屋)の図

 紙屋門の前に、享保十年(1725年)の山崎城の状況を描いた図が掲示されていた。真ん中の御殿が、現在山崎町歴史民俗資料館のある場所である。

 図の上に桜の馬場とあるが、陣屋から桜の馬場に下りる当時の道が、今も残っている。

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桜の馬場に下りる道

 さて、今まで紹介したのは、江戸時代以降の平和な時代の宍粟市山崎町の遺構である。
 今からは、戦国時代に宍粟郡を支配した宇野氏の凄惨な最期について書く。

 山崎城跡から北に数キロ行くと、長水山という標高584メートルの山がある。その山上に長水(ちょうずい)城址がある。

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長水山登山口

 宇野氏は、赤松氏の支族である。長水城は、赤松則祐が築城した。戦国時代には、宇野氏が守護代として長水城に拠り、宍粟郡を支配した。

 戦国末期に、宇野氏は信長麾下で播磨平定を進める秀吉から降伏勧告を受けた。城内で議論した結果、秀吉に敵対しないこととし、宇野政頼が交渉のため秀吉のいる姫路城に赴いた。

 しかし、秀吉は、宇野政頼に待ちぼうけを食らわせた。怒った政頼は、秀吉に会わずに長水城に帰ってしまう。交渉は成立しなかった。

 天正八年(1580年)、羽柴秀吉軍の攻撃により、長水城は落城した。宇野政頼、祐清父子は、城を脱出するが、秀吉軍に追撃され、千種大森(現宍粟市千種町)で討ち死にしたとされる。 

 長水山の標高は高いが、途中まで車で行くことが出来る。登山口から頂上までは約40分である。

 頂上に近づくと、石垣が見えてくる。山頂下に民家が1軒あった。

 今、テレビ番組で、「ポツンと一軒家」というのがあるが、まさにそれである。

 実は、登山前にネットで調べて、ここに一軒家があることは知っていた。

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山頂近くの石垣

 長水山の頂上には、信徳寺というお寺が建っている。ネット上の神戸新聞の記事によると、このお寺は、宇野氏の家臣の子孫が、長水城で滅んだ宇野氏や家臣達を供養するために、昭和9年に建てた寺らしい。

 民家に住んでいるのは、今の信徳寺の住職一家である。先代の住職が、夢の中で、祖先から長水山上にお寺を建てて供養して欲しいという願いを聞いたことが始まりらしい。 

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長水城址

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長水城の石垣

 山頂に行くと、不動明王像が祀られていた。

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山上の不動明王

 私が長水城址に登った日は、暑い日であった。山上でも焼けるように暑い。風は熱風のようである。

 宇野氏を滅ぼした秀吉の天下は長く続かなかった。それでも、長水城で討ち死にした武士たちの気持ちは晴れないのだろうか。

 江戸時代に入り、山崎城が築かれてから、長水城は廃城となった。

 しかし、山上に立つと、未だにかつての長水城の主たちが、自分たちの存在を忘れないで欲しいと訴えているように感じた。

姫路市安富町

 姫路市安富町は、以前は宍粟(しそう)郡安富町という独立した自治体だった。

 平成18年3月に、安富町は姫路市と合併した。安富町以外の宍粟郡の町は、その1年前に合併して宍粟市となっていた。安富町が姫路市と合併した時に、奈良時代に編纂された「播磨国風土記」にも記載されている歴史的地名、宍粟郡は消滅した。

 今は姫路市の一部となった安富町だが、位置は姫路市の北西部になる。ここにも、ところどころに史跡がある。

 まず訪れたのは、姫路市安富町安志にある、光久寺である。

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光久寺

 光久寺の本尊、不動明王立像は、国指定重要文化財である。この不動明王小野篁(おののたかむら、802~853年)が彫ったものと伝えられている。小野篁は、平安時代初期の官僚で、当時有数の漢詩人であった。

 光久寺は、安志藩主小笠原家の祈願所である。小笠原家の祖先の加賀美遠光が、宮中の怪異を鳴弦の術で鎮めた恩賞として、高倉天皇から賜った禁裏守護の尊像が、この不動明王立像だとされている。

 以後、小笠原家は領地が移転するたびに、不動明王を祀るための光久寺を建てた。小笠原家の最後の領地、安志藩領に建てられた光久寺が、ここである。今の光久寺は、真言宗醍醐寺派に属する。

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光久寺護摩堂跡

 光久寺には、かつて護摩堂という立派な建物があったが、平成22年に火災で焼失してしまった。

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光久寺説明板

 説明板に、ありし日の護摩堂の写真が載っている。

 この時、不動明王立像は焼けなかった。不動明王立像は、護摩堂奥に建つ収蔵庫にしまわれている。今の光久寺には、住職はおらず、地元の有志が寺を管理している。

 不動明王立像は、非公開なので拝観できなかったが、代わりに姫路市のホームページで公開されている写真を掲載する。

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不動明王立像

 独特の力強さを感じる像だ。小野篁が彫った霊仏というのも頷ける。小野篁自体が、昼は宮廷で官吏として働き、夜は閻魔大王の補佐をしていたという伝説が残る人物である。なかなかの反骨漢で知られている。

 案内板を読むと、光久寺の東隣に安志藩の陣屋が建っていたらしい。今は、草の生えるただの空き地である。

 さて、光久寺から少し北に行くと、天台宗の今念寺がある。

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今念寺

 この寺は、弘安三年(1280年)の開創である。弘安三年と言えば、弘安四年のモンゴル帝国軍の二度目の襲来(弘安の役)の前年である。弘安二年には、モンゴルからの使いを鎌倉幕府が斬り捨て、徹底抗戦の意思を示した。日本中が、蒙古軍の再度の襲来があることを予期し、固唾を飲んでいたころである。

 境内には、「造立願主弘安三年庚辰二月日沙弥成仏」と彫られた石造五重塔がある。

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石造五重塔

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 今から739年前に石に彫られた字が、こんなにはっきりと残っているのに感動した。人は昔から生きているんだなあと実感する。

 今念寺から車で北上すると、千年家と呼ばれる旧古井家住宅がある。

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古井家住宅

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 古井家住宅は、室町時代末期に建てられたとされる、当時の農民の家である。家構えからして、当時の長百姓の家ではなかったかと言われている。

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 民家としては、全国で1,2を争う古い遺構である。江戸時代には、既に千年家と呼ばれ、昔から伝わる古い家であると認識されていた。国指定重要文化財である。

 寺院や神社などは、古い建物が残っていたりするが、一般の民家はすぐに取り壊されてしまうので、現代になかなか残っていない。

 生憎私が訪れた日は平日だったので、建物内部は公開されていなかった。私は10年前に古井家住宅を訪れ、内部を見学したが、床板や柱が手斧で鎌倉彫のように削られて仕上げられており、こんなに簡素で美しい室内装飾はないと感じたものだ。写真が見せられなくて残念である。

 有年の遺跡の記事で、古墳時代の民家のことを書いたが、今、室町時代の民家の実物を見ることができた。古井家住宅より古い民家は日本には無いだろうが、再現されたものでいいから、鎌倉、平安、奈良、白鳳、飛鳥時代の民家がどんな様子だったか見たいものだ。

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 古井家住宅には、壁や窓や縁側があるが、日本の平均的な農民が、竪穴式住居から、壁や窓のある家に住み始めたのがいつ頃なのか、そのミッシングリングを知りたいものだ。

 これからの長い史跡巡りの中で、そんな建物に巡り合えるだろうか。

姫路市龍野町界隈

 姫路城の周辺には、城下町の風情を残す町名が残っている。

 小利木町、鷹匠町、農人町、小姓町、龍野町、鍵町、材木町・・・。

 特に龍野町は、旧西国街道に面しており、かつては格子窓や虫籠窓を持った町屋が立ち並ぶ、古くからの城下町の味わいを残した町だった。今はそうした町屋も次々と取り壊され、かつての古い町並みは無くなりつつある。

 龍野町は、もともと英賀城に住んでいた商人を、秀吉が引っ越しさせて出来た町である。今回は、龍野町の周辺の史跡について書く。

 姫路城の西側を流れる船場川は、飾磨港まで流れている。港とお城を結ぶ川である。昔はここを高瀬舟が上下した。

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船場

 船場川を姫路城から飾磨港までの水運に使いだしたのは、池田家の次に姫路藩主となった本多忠政である。川の名前も、妹背川と言っていたのを、船場川に改めた。

 船場川は、姫路城の防御にも利用されていた。姫路城車門から出て船場川を渡る橋を車門橋という。

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車門橋

 この橋を渡ると、そこからは西国街道である。西国街道は、江戸時代に京都から下関までを結んだ道である。山陽道とも言われる。現代で言えば、国道2号線のようなものか。

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西国街道の碑

 車門橋からすぐ西に西国街道の碑が建っている。写真右側の、奥に伸びる道が西国街道である。この道の両側が龍野町である。

 西国街道に入ってすぐに目に留まる町屋は、姫路出身の歌人・初井しづ枝の旧居である。

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初井しづ枝居宅跡

 初井しづ枝は、明治33年(1900年)から昭和51年(1976年)までを生きた歌人である。この家は、初井が嫁に入った家である。

はなやぎし けふの茜も 消えゆくか 一つ冬雲 燃え残しつつ 

   初井の最後の歌集「夏木立」からの一首である。

 私は平成13年ころ、この界隈をよく歩いたことがあるが、そのころは西国街道沿いに古い町屋が立ち並んでいた。今は、ほとんどが現代の民家に建て替わっているか、空き地になっている。仕方はないが、少し寂しさを感じる。

 西国街道を西に歩いてから北に上がると、曹洞宗の景福寺がある。

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景福寺

 景福寺は、姫路藩主酒井家の菩提寺である。境内の中に幼稚園があるが、敷地内に藩主の正室や子息の墓が並んでいる。 

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酒井家藩主の妻子の墓

 景福寺の裏山を景福寺山という。幕末の姫路藩主酒井家は、佐幕であった。鳥羽伏見の戦い幕府軍が敗れた後も、姫路藩は佐幕を通した。そこで、姫路藩は、官軍から攻撃されることとなった。官軍である備前藩の部隊は、景福寺山に陣地を敷き、山上から姫路城を砲撃した。後の記事で書くことがあろうが、この時姫路藩は即座に降伏し、無血開城した。これがなければ、我々は今ある姫路城を見ることは出来なかっただろう。

 景福寺から北東に行くと、見星寺がある。ここは、本多忠政ゆかりの寺である。本多忠政の正室熊姫は、信長の長女・徳姫の次女である。忠政と熊姫の間に生まれた本多正朝が、祖母の徳姫の菩提を弔うために開創した寺である。

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見星寺山門

 境内には、本多忠政、忠朝ゆかりの石造五重塔がある。

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本多家ゆかりの五輪塔

 ここに来て私が初めて知ったのは、寛延二年(1749年)に船場川が溢れて、洪水で337人の死者が出ていたということである。見星寺には、洪水から25回忌に建てられた寛延二年大洪水流死菩提所碑が建っている。

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寛延二年大洪水流死菩提所碑

 こまめに史跡を巡ると、新しい発見があるものだ。

 さて、龍野町3丁目の南側にある元町には、車橋の碑がある。

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車橋の碑

 この碑は、車橋よりかなり離れたところにあるが、その理由はよく分かっていない。

 龍野町の北側には、農人町がある。ここには、鋸の歯のようにギザギザになった道が残されている。

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農人町のギザギザ道

 姫路藩が、城に攻めてくる敵を、家の影に隠れて、待ち伏せする防御戦法のために、このような区割りにしたと言われている。江戸時代の道が、何気なく現代の土地区画に残っているのが面白い。

 農人町の西側には、柿山伏(かきやまぶし)という町がある。江戸時代には、下級武士の邸が建っていた場所である。

 現代も一軒の武家屋敷が残っているそうだが、非公開で、地図にも載っていない。柿山伏を隅から隅まで歩いて、門構えがそれらしい家を一軒見つけたが、一般の民家であり、武家屋敷かどうか分からないから、写真は撮らなかった。

 龍野町西国街道を西に歩くと、突き当りに大きな空き地がある。ここは旧姫路赤十字病院の敷地跡である。

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飾磨県庁跡

 しかし、歴史的には、飾磨県庁跡と呼んだ方がよい。

 明治4年11月に、播磨国内の諸県を統合して姫路県が出来たが、わずか一週間後に飾磨県に名前が変更される。名称変更の理由はよく分かっていない。佐幕の姫路藩の名前を連想する姫路県という名を、明治政府が嫌った、という説がある。

 この空き地は、その飾磨県の県庁があった場所である。

 明治9年(1876年)に大久保利通が、兵庫港神戸港)を管轄する兵庫県と飾磨県を併合させて、現兵庫県が誕生する。

 兵庫県との合併後、飾磨県庁は、姫路赤十字病院の建物として利用され、平成14年まで、ここに姫路赤十字病院が建っていた。

 今はご覧の通りの空き地である。石碑も何も建っていない。

 現代には、飾磨県庁どころか、龍野町の町屋もほとんど失われてしまったが、遠い未来には、日本中の史跡も、いずれ全て土の中に入ってしまうのだろうと思った。

船場本徳寺

 かつて亀山本徳寺の記事で書いたが、姫路市の英賀地区には、土塁と堀に囲まれた英賀城という城があり、その中に英賀御堂と呼ばれた浄土真宗一向宗)の寺があった。播磨の浄土真宗布教の中心であった。

 英賀城城主三木氏と一向宗門徒は、毛利氏と組んで、信長に対抗したが、信長麾下の秀吉軍により、天正八年(1580年)に攻撃され、英賀城は陥落した。

 天正十年(1582年)、秀吉は、英賀御堂に亀山の地への移転を命ずる。これが、現在の亀山本徳寺の起源である。

 関ヶ原の合戦後、浄土真宗西本願寺派(現浄土真宗本願寺派)と東本願寺派(現真宗大谷派)に分裂する。分裂には、何かと「大人の事情」があったようだが、ここでは触れない。

 播磨の本徳寺も、東西に分裂することになる。亀山本徳寺は、西本願寺派となり、そこから分裂して出来た船場本徳寺が、東本願寺派に所属することになる。

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船場本徳寺

 元和三年(1617年)、東本願寺派門徒は、播磨における東本願寺派の興隆のため、姫路藩主本多忠政から、現在の姫路市地内町に、百間四方の土地と旧藩主池田家菩提寺国清寺の建物を与えられ、翌年船場本徳寺を建立した。

 現代の本堂は、享保三年(1718年)に落成した。

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船場本徳寺本堂

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 楼門から本堂に至る参道は、本堂と斜めに接続する。

 この本堂、1718年の落成だとしたら、昨年が落成300周年だったことになる。亀山本徳寺本堂に負けず劣らず立派で、いい意味で古びた本堂だ。

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本堂正面

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 それにしても、どうして古い建物はいつまで見ていても飽きがこないのだろう。

 私が訪れた時は、寺内に人の気配が全くなく、寂として蝉の声だけが広い境内を領していた。

 本堂に上がると、大座敷は開放されていた。

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本堂内陣

 内陣の前に座り、心静かに手を合わせた。私は真宗門徒ではないが、浄土真宗の弥陀の本願に縋る、という考え方は、ある意味信仰らしい信仰であると思う。

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ご本尊阿弥陀如来

 阿弥陀如来の本願力を頼み(他力本願の語源)、只管南無阿弥陀仏という名号を唱えれば、どんな人間でも往生できるという親鸞の教えは、難しい教典を理解し、高度な修行をしなければ真実に到達できないとする、それまでのエリートのための仏教を、一挙に民衆に親しみやすいものにした。

 浄土真宗の考え方は、絶対他力と言われる。自分の努力は必要ないという考え方である。これだけ聞くと、良くないように思えるかもしれないが、人間如きの努力で往生できるというのは傲慢な考えだから、自分を無にして、ひたすら弥陀の本願を信じ続けることで救われるという、自分を無にして弥陀に縋る信仰を極限まで推し進めたのが浄土真宗なのである。

 それがいいのか悪いのかは別にして、どんな考え方にも欠陥があって、それを補修する新しい考え方がどこかから出てくるという例にはなると思う。

 船場本徳寺は、かつて明治天皇が姫路に行幸された時に、天皇の行在所となっている。その時に天皇がお泊りになった建物が、本堂の裏に残っている。

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明治天皇行在所

 また、船場本徳寺は、第一次世界大戦の時に、日本の捕虜となったドイツ軍兵士の収容所としても使われた。

 捕虜となったドイツ兵が、故郷を懐かしんでセメントで造った城のモニュメントが、本堂裏にひっそりと残っている。

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ドイツ兵捕虜が造った古城のモニュメント

 おそらく、捕虜のドイツ兵は、姫路城を見て、自分たちの故郷の城を作ってみようと思ったのではないか。

 これも歴史の1ページである。

書写山麓

 書写山の麓にも、地味ながら見るべきスポットはある。

 まずは、坂本城跡である。城跡、と言っても、今や土塁があるだけである。

 坂本城は、赤松満祐が、嘉吉の乱室町幕府6代将軍足利義教を殺害した後、立て籠もった城である。

 ここは、それほど堅固な城ではなかったので、満祐は、たつの市の城山(きのやま)城に籠城場所を変え、そこで滅ぼされる。

 兵庫県立大学工学部前の交差点を南に下ると、すぐに坂本城跡の土塁に行き当たる。

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坂本城土塁

 坂本城跡の石碑が建っていないと、これが昔の城の土塁だとは誰も気が付かないだろう。

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坂本城

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坂本城跡説明板

 それにしても、よくこんな住宅地の真ん中で、この土塁が掘削されずに生き残ったものだ。

 さて、書写山の南麓にあるのが如意輪寺である。長保四年(1002年)、性空上人が開刹した寺院である。

 圓教寺は、応永五年(1398年)に女人禁制となった。それ以後、禁制が解けるまで、如意輪寺は、書写山に悟りの機縁を求める女人たちのためのお寺となる。

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如意輪寺

 如意輪寺に上がる石段手前には、姫路出身の文学者・椎名麟三の文学碑と生家跡があった。

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椎名麟三生家跡

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椎名麟三文学碑

 私は椎名麟三の作品を読んだことがない。椎名は戦後の日本にしばし現れて消えた文学者の一人だ。今や著作の大半は絶版になっている。だからと言って、価値がないことはなかろう。女人堂の石段が四十三段あることに気づいて、それを書いただけで、何がしかの価値はある。人は誰しも、その人しか知らない小さな秘密を持っているものだ。そんな秘密は、大事にすべきである。

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如意輪寺本堂

 如意輪寺には、姫路市の指定文化財となっている仏像が三体ある。公開はされていない。

 境内で目を引いたのは、「守護使不入」の石柱である。

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守護使不入の石柱

 如意輪寺も圓教寺も、書写山の寺領からの収穫で維持されていた。この石柱は、昔、書写山領の入り口に建てられていたものだ。

 守護とは、鎌倉・室町時代の国単位の軍事指揮官・行政官であって、現代で言えば県知事と県警察本部長を兼任したような立場だろう。

 書写山領には、守護の使いが入ることが出来なかったようだ。中世日本は、現代の日本と違って、全国一律の法律が通用していた訳ではない。

 さまざまな法体系を持ったエリアが、入り組んでいた時代である。

 そんな書写山領が、羽柴秀吉に全部没収されてしまったのは、書写山にとっては悲しむべきことだが、日本全体から見れば、全国統一という新しい時代の到来を知らせる出来事だった。

 書写山ロープウェー駅の北側に、姫路市書写の里美術工芸館がある。

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姫路市書写の里美術工芸館

 ここには、姫路出身で、東大寺管主となった僧侶・清水公照のどろ仏などが展示されている。

 どろ仏は、清水公照が、全国の焼き物の土を使って作った仏像群である。

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どろ仏

 工芸館では、常設展の他に、特別展が開かれている。今日は猫の写真家として有名な岩合光昭さんの写真展「ねこといぬ」が開かれていた。

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写真展ねこといぬ

 岩合さんは、世界中を巡って猫の写真を撮り続けている写真家だが、自分の好きな被写体を追いかけることを職業に出来るのは、本当に幸せなことだと思う。

 それにしても、異種の動物の間の友情は、どうしてこんなにも人をほっこりさせるのだろう。

 美術工芸館には、その外にも、姫路名産の革細工や明珍火箸が展示してある。

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明珍火箸

 甲冑師の家・明珍家が、甲冑作りの技術を用いて作った明珍火箸は、火鉢が使われなくなった現代には、風鈴として売られている。

 明珍火箸は、非常に澄んだ音を出すことで有名である。お土産としてお奨めだ。

 暑いなか書写山を歩いてとても疲れたが、明珍火箸の音が、ほんの少しの間、疲れを忘れさせてくれた。